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ぴよぴよ

山下公園って目の前が海で広々としていて心地が良いよね


みかんみかん

昔、山下公園の中に家族で暮らしていた人がいるんだよ


【横浜の歴史】
山下公園の中に立派な家を建てて
家族が暮らしていた

このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。

「途次大志の備忘録」の執筆者で海風を感じながら暮らしてみたい途次大志(toji-taishi)です。

横浜の観光地のひとつ山下公園を訪れた人なら「こんな海沿いの広々とした公園内で暮らせたら良いな」と思った人もいらっしゃるのではないでしょうか。

立派な家を山下公園の中に建て家族の暮らしが実際にあったと聞けば驚きませんか。

私は驚きとともに羨ましく思いました。

山下公園の歴史を知るキーワード
  • 関東大震災(1923年)
  • 日本とアメリカによる接収
  • 立派な家に家族の暮らし

「5つの時代区分」で山下公園の歴史を知る

4つの出来事と5つの時代区分YRK10
横浜在住20年の私も大好きな場所、山下公園の歴史を「4つの出来事」で区切り「5つの時代区分」で眺めていきます。

横浜の歴史を整理しながら理解する際には、横浜開港、関東大震災、横浜大空襲、横浜博覧会の「4つの出来事」の年号を知っておくと便利です。

この「4つの出来事」を境に横浜の街並みは今の姿へと進化していきました。

山下公園に家族が暮らしていたのは「5つの時代区分」のいつ頃のことなのでしょう?どんな背景があったのでしょう?

横浜の歴史の「5つの時代区分」
  1. 横浜開港(1859年)以前
  2. 横浜開港(1859年)以降
  3. 関東大震災(1923年)以降
  4. 横浜大空襲(1945年)以降
  5. 横浜博覧会(1989年)以降

横浜開港(1859年)以前の山下公園

江戸時代初期の山下公園
観光地スポットが多い横浜ですが、開港前の江戸時代初期はその多くが海の中でした。

山下公園も海の中でした。

みなとみらい線の元町・中華街周辺には横浜村の集落があり、山下公園は海岸沿いの海の中です。

横浜村については下記の以前の記事でもご紹介していますが、もともとこの横浜村の集落に住んでいた人たちで作ったのが現在の横浜元町商店街です。

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横浜開港(1859年)以降の山下公園

横浜開港後の山下公園
1859年に横浜が開港する直前に新田開発が進み陸地が増えていきましたが、明治の発展期にはまだ山下公園は存在していません。

「関内」とは現在の吉田橋(JR関内駅付近)の近くにあった関所の内側という意味で、その内側には外国人居留地がありました。

外国人居留地にはホテルやクラブなどが建ち並び、現在の山下公園前の道路(海岸通り)は海辺の散歩道として利用されていましたようです。

山下公園の誕生には関東大震災まで待たなくてはなりません

関東大震災(1923年)以降の山下公園

関東大震災以降の主な出来事
横浜開港(1859年)以降の発展期に誕生していなかった山下公園がなぜ関東大震災以降に誕生することになったのでしょう。

関東大震災以降の主な出来事

1923年 関東大震災発生
1927年 ホテル・ニューグランド開業
1930年 山下公園開園
1935年 復興記念・横浜大博覧会開催
1943年 山下公園接収(日本海軍)

関東大震災の瓦礫処理

ホテル・ニューグランド
1923年9月1日に発生した関東大震災により市街地に大量の瓦礫が生じました。

復興計画の一環として瓦礫を利用して1930年に誕生したのが山下公園です。

山下公園開園前にホテル・ニューグランドが建てられ、1935年には復興を記念した横浜大博覧会が開催されました。

日本による接収

山下公園園内風景
現在の山下公園を心地よい海風を感じながら歩いているとなかなか実感できませんが、忘れてはいけないのはこの国はかつて戦争をしていたという歴史です。

横浜はペリーやハリスといったアメリカ人と縁深い土地です。またメリケン波止場(現在の大さん橋)など日本の玄関口としてアメリカとの関係を築いてきた場所です。

関東大震災の後もアメリカのシアトルから200種類のバラが贈られ、山下公園にも植えられました。

そのアメリカと敵国として戦うために、海沿いの公園として市民の憩いの場であった山下公園が日本海軍に接収されるという悲しい歴史がありました。

横浜大空襲(1945年)以降の山下公園

横浜大空襲以降の主な出来事
横浜開港以降、横浜の人たちにとってアメリカという国は親しみのある国でした。

横浜には大規模な空襲はないだろうという希望的な観測が横浜に住む人たちにはあったと言います。

アメリカによる接収

山下公園内芝生占領軍住宅地
1945年の横浜大空襲では湾岸設備が充実した海岸線の被害は大きくはなかったようです。

日本の敗戦で太平洋戦争が集結し、占領軍としてのアメリカが横浜にやってきました。

横浜の主要な場所が占領地として接収され、山下公園も接収されることになったのです。

山下公園は占領軍の大尉や中尉の家族向けの住宅地として利用されます。

今では容易に信じられないことですが、山下公園内には「デペンデント・ハウス」と呼ばれる立派な家が30個ほど建てられ、確かにアメリカ軍の家族が暮らしていたのです。

接収解除後に整備

マリンタワー
終戦から14年後に山下公園の接収が完全に解除され、再び市民の憩いの場所へと整備されていきました。

1961年にはヨコハマ・マリンタワーと氷川丸が開業します。

山下公園の道路沿いを山下臨港線という鉄道が走り始めました。

山下臨港線はわずか15年ほどで役目を終えますが、横浜の「4つの出来事」のひとつ1989年の横浜博覧会が開催されている期間中に復活します。

横浜大空襲以降の主な出来事

1945年 山下公園接収(米国占領軍)
1959年 山下公園接収解除
1961年 マリンタワー、氷川丸開業
1965年 山下臨港線開通
1981年 山下臨港線廃止

横浜博覧会(1989年)以降の山下公園

山下公園よりみなとみらいを望む
1935年に関東大震災からの復興を記念して横浜大博覧会が山下公園で開催されましたが、その後、約50年を経てみなとみらいで横浜博覧会(YES’89)が開催されました。

かつての山下臨港線を利用して日本丸駅(桜木町駅付近)と山下公園駅を結ぶ横浜博覧会臨海線という鉄道が横浜博覧会開催中に活躍しました。

現在、かつての山下臨海線の一部は「山下臨海線プロムナード」として新港の赤レンガ倉庫付近を通り汽車道を抜ける眺めの良い遊歩道として私たちを楽しませてくれています。

まとめ

氷川丸
江戸時代に横浜村の住民が暮らしていた海外線沿いに関東大震災の瓦礫を集めて築き上げられたのが山下公園です。

太平洋戦争の影響を受けて日本に接収され、戦後はアメリカに接収されました。

接収中には「デペンデント・ハウス」と呼ばれた公園内に建てられた立派な住宅でアメリカの軍人さん家族の暮らしがありました。

接収が解除され1961年にはマリンタワーや氷川丸が開業し、現在の横浜を代表する観光地として誰でも好きな時に山下公園に訪れることができます。

アメリカという国と横浜との歴史の中の深い縁を思い出しながら、山下公園の海沿いの広々とした遊歩道を歩くのも良いものです。

参考文献

「横浜・山下公園〜海辺に刻まれた街の記憶〜」
港町の近代―門司・小樽・横浜・函館を読む

最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。
これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。
今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。

途次大志

Title toji-taishi-no-bibouroku
途次大志のプロフィール紹介

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