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歴史を調べるって面白いね


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横浜駅の歴史にもいろいろな出来事が絡み合っているよね

横浜駅
西口周辺と東口周辺の
発展の歴史を
3つのキーワードで知る
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。

「途次大志の備忘録」の執筆者でつくづく歴史は面白いなと感じる途次大志(toji-taishi)です。

この記事は以前ご紹介した「横浜駅西口の歴史:開港100年後やっと高島屋・ダイヤモンド地下街登場」の記事の続編です。

さて、関東大震災後の1928年に現在の場所に横浜駅がやってきました。

横浜駅が「ハマの銀座」と呼ばれた伊勢佐木町に近い桜木町駅の乗車人員を初めて超えたのは1959年です。

1928年から1959年の約30年間、なぜ横浜駅周辺は発展しなかったのでしょう。

横浜駅の西口周辺と東口周辺の発展の歴史を知る上で「3つのキーワード」が参考になります。

横浜駅発展のキーワード
  • 関東大震災と横浜大空襲
  • 日本とアメリカによる接収
  • 相模鉄道(相鉄)の奮闘
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横浜の歴史の「4つの出来事」と「5つの時代区分」

4つの出来事と5つの時代区分YRK10
横浜の歴史をざっくりと知るには1859年横浜開港、1923年関東大震災、1945年横浜大空襲、1989年横浜博覧会の「4つの出来事」の年号を頭に入れておくと整理しやすくなります。

「4つの出来事」に区切られた「5つの時代区分」に横浜にどんな歴史的なことが起こったのかを眺めると理解しやすいでしょう。

横浜駅西口周辺と東口周辺の発展の歴史を「5つの時代区分」をもとに眺めていきます。

横浜の歴史の「5つの時代区分」
  1. 横浜開港(1859年)以前
  2. 横浜開港(1859年)以降
  3. 関東大震災(1923年)以降
  4. 横浜大空襲(1945年)以降
  5. 横浜博覧会(1989年)以降
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横浜開港(1859年)以前の横浜駅

江戸時代初期の横浜駅周辺

横浜駅周辺は「袖の浦」

現在の横浜駅は横浜開港(1859年)以前には海の中だったことはよく知られています。

京急の神奈川駅周辺に東海道の神奈川宿があり、江戸からの最初の宿泊地として賑わっていました。

神奈川宿から見た「袖の浦」の風景が安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」にも登場しています。

宝永噴火と新田開発

1707年(宝永4年)に富士山の噴火による灰が「袖の浦」にも降り積もり、新田開発が進みました。

江戸末期には現在の横浜駅西口の少し西側の岡野新田、平沼新田が開拓されていきます。

横浜開港以前の現在の横浜駅周辺は新田開発を経た後も依然として海の中のままです。

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横浜開港(1859年)以降の横浜駅

現在の横浜駅西口周辺を所有

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1872年に鉄道開通

日本で初めての鉄道が1872年に新橋と横浜の間を走りました。

開通当初の横浜駅は現在の桜木町駅で、横浜開港以降に発展を続ける関内周辺へのアクセスが重視されていたようです。

現在の横浜駅周辺は鉄道敷設のために築かれた弓状の突堤付近に位置していました。

大阪と東京を結ぶ東海道線にとって初代の横浜駅(現桜木町駅)ではスイッチバックの不便が生じるため、1915年に現在の高島町周辺へと横浜駅(2代目)が移動しました。

その後、鉄道敷設のための弓状の突堤の東西が埋め立てられていき現在の横浜駅周辺が陸地となっていきました。

スタンダード石油会社の登場

陸地となった現在の横浜駅西口周辺をアメリカ企業のスタンダード石油会社が1907年に所有し始めました。

スタンダード石油会社は現在の西口周辺に油槽所を建設します。

「スタンダー」というニックネームが付くほどに横浜駅西口の開発の歴史にはこの後も登場するのでぜひアメリカ企業のスタンダード石油会社の名前を覚えておいてください。

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関東大震災(1923年)以降の横浜駅

横浜駅発展の3つのキーワード

1923年に関東大震災発生

1923年9月1日の関東大震災の発生により現在の横浜駅西口周辺にあったスタンダード石油会社の油槽所のタンクが大炎上を起こします。

タンクが次々と誘爆し火柱と黒い煙が立ち、流れ出した油によって付近の運河は火の海となりました。

付近の住人にとってはこの関東大震災での被害の記憶がこの後の横浜駅西口の開発にも影響することになります。

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現在の3代目横浜駅へ

初代の横浜駅(現桜木町駅)では東海道線にとってスイッチバックが必要だったために高島町周辺へと移動した2代目の横浜駅の駅舎も関東大震災で大きな被害を受けました。

大きな被害を受けた2代目に代わって1928年に現在の場所へ3代目の横浜駅が移動されることによって、東海道線がより直線的に大阪と東京を結ぶことができるようになりました。

東海道線の大阪駅にも名古屋駅にも本格的な駅舎がなかった当時の鉄道事情において、現在の場所へやってきた3代目の横浜駅には本格的な駅舎が建設されました。

もともと海だった場所への本格的な駅舎の建設は困難を極め、まるで「海の上に建てるようなもの」だったようです。

基礎固めとして18メートルの材木(オレゴンパイン)2,300本を輸入し杭打ちしなければなりませんでした。

困難を乗り越え本格的な駅舎を備え現在の場所へとやってきた横浜駅の周辺はすぐに発展したのだろうと想像してしまいます。

しかし「東洋一」「大横浜文化の大玄関」と呼ばれた駅舎を持つ3代目横浜駅の周辺にはすぐには発展が訪れないのです。

駅舎が立つ横浜駅東口は市電の停車場として利用されますが、横浜駅西口周辺は関東大震災の大炎上したスタンダード会社の土地が広がっていました。

横浜で賑わう場所はこの後もしばらく関内周辺に限られていたようです。

横浜大空襲(1945年)以降の横浜駅

横浜駅西口と東口の開発年表

横浜駅西口のスタンダーの土地

太平洋戦争が始まると横浜駅西口周辺に広がるスタンダード会社の土地は「敵性財産」として帝国海軍の資材置き場とし日本に接収されました。

1945年の横浜大空襲ではアメリカ軍による焼夷弾により横浜駅の上下線のホーム事務室や待合室などが消失しました。

空襲目標地点のひとつ平沼橋に近い横浜駅西口周辺は東口周辺よりも多大な被害を受けました。

戦後には横浜駅周辺はアメリカにより接収され占領軍の砂利置き場として利用されていました。

相鉄が横浜駅西口を開発

1928年に3代目横浜駅が現在の場所にやってきて「東洋一」の駅舎を構えながらも大きな発展がなく、横浜駅西口周辺は日本とアメリカにより接収される運命を辿ったのです。

かつて「ハマの銀座」と呼ばれた関内周辺もアメリカにより接収され、横浜市民は窮屈な思いをしていたことでしょう。

終戦から6年後の1951年に横浜駅西口の土地の接収が解除され、スタンダード石油会社に戻されます。

本来であればやっと戻ってきた土地に以前のようにスタンダード石油会社の油槽所が建設されるところですが、関東大震災の大炎上を記憶していた市民の反対もあり断念せざるを得ませんでした。

関東大震災の大炎上による地域住民への被害がなければ、もしかしたら現在の横浜駅西口には油槽所のタンクが建ち並んでいたかもしれないと考えると歴史とは非常に興味深い対象に感じます。

油槽所が建設できない土地をスタンダード石油会社は相模鉄道(相鉄)に売却しました。

ここから相鉄による横浜駅西口の開発が本格的にスタートするのです。

横浜駅西口と東口の開発

横浜開港(1859年)から100年後に、横浜駅が名実ともに「横浜の玄関口」としての今の姿へと発展していきます。

スタンダード石油会社から買い取った横浜駅西口周辺の土地を「横浜センター」と名付けて開発を進めていきました。

幸いなことに1955年に三ツ沢で国民体育大会が開催され、横浜駅西口広場と周辺道路が天皇陛下の行幸事業として整備されました。

現在の相鉄ジョイナスの前身であるアーケード商店街の横浜駅名品街が開発の先頭を切って1956年に誕生します。

その後、1959年に横浜高島屋、1964年にダイヤモンド地下街が横浜駅西口に誕生していきました。

一方、横浜駅東口では「東洋一」と呼ばれた本格的な駅舎を解体し、1968年に横浜スカイビル、1980年にポルタ地下街、ルミネが誕生していきます。

先に発展した西口と続いて発展した東口を往来できる幅36メートルの東西自由通路が1981年に開通し、現在の横浜駅に近い姿へと変貌を遂げていきました。

1928年の3代目横浜駅誕生から約30年近く大きな発展が見られなかった経緯を考えると、大規模な開発の実行はまさに相鉄の英断だったと言えるのではないでしょうか。

開発途中の相鉄の奮闘の様子は書籍「横浜駅物語」などでさらに詳しく知ることができます。

横浜博覧会(1989年)以降の横浜駅

横浜駅への鉄道乗り入れ年表
横浜市の「六大事業」のひとつとして地下鉄が横浜駅に乗り入れ、一方で同じ「六大事業」のひとつとしてみなとみらい地区の開発も進められました。

1859年の横浜博覧会の跡地に広がるみなとみらい地区へと続くみなとみらい線(MM線)が2004年に開通し、さらに横浜駅は横浜の玄関口として飛躍していきました。

現在ではJR線、東急線、京急線、相鉄線、地下鉄、MM線の6社が乗り入れ、JR線だけの一日当たりの乗車人員を見ても大阪駅と同程度の約40万人超の人が利用する誰もが認めるビッグターミナルへと発展しました。

戦前に「日本一淋しい駅前」と言われた横浜駅周辺の様子を想像することの方が今となっては難しいくらいです。

まとめ

横浜駅の西口と東口の開発の歴史を3つの「横浜駅発展のキーワード」で整理しました。

横浜駅発展のキーワード
  • 関東大震災と横浜大空襲
  • 日本とアメリカによる接収
  • 相模鉄道(相鉄)の奮闘

1923年の関東大震災で大きな被害を受けた2代目横浜駅に代わり、1928年に現在の場所に横浜駅がやってきました。

関東大震災でスタンダード石油会社の油槽所が大炎上し周辺住民に大きな被害が及び、その記憶は市民の記憶の中に留まり続けます。

1945年の横浜大空襲で「東洋一」と呼ばれた東口の駅舎も被害を受けましたが、西口周辺はさらに大きな被害を受けました。

太平洋戦争中には横浜駅西口周辺のスタンダード石油会社の土地を「敵性財産」として日本が接収し、戦後は占領軍であるアメリカが接収しました。

米軍の接収解除の後、スタンダード石油会社は関東大震災の市民の記憶によって油槽所の再建を断念し、横浜駅西口周辺の土地を相模鉄道(相鉄)に売却します。

現在の相鉄ジョイナスの前身である横浜名品街を皮切りに西口の開発が進み、続いて東口の開発、東西を結びつける東西自由通路が誕生してきました。

当たり前のように利用しているビッグターミナル横浜駅の歴史の中に、様々な出来事の複雑な絡み合いとその時代を生きた人々の奮闘があったのです。

歴史を考えながら歩くと横浜駅も単なる横浜の玄関口というだけでなく立派な観光スポットのひとつであることを改めて感じさせられます。

参考文献

「地図」で探る横浜の鉄道
鉄道と街・横浜駅
横浜駅物語
都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして

最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志

Title toji-taishi-no-bibouroku途次大志のプロフィール紹介

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