ペリー提督が横浜に上陸したという話は聞いたことがあるような気がするね
浦賀だけじゃなく横浜にも上陸して住民を観察し記録に残したよ
こんな人にオススメ
- 横浜の歴史を簡単にざっくり理解したい人
- 横浜観光をもっと深く楽しみたい人
- 横浜に縁がある人
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者で散歩好きな途次大志(toji-taishi)です。
横浜は年間3,000万人以上が訪れる観光の街で、観光地の歴史や背景を知ればさらに楽しくなります。
ペリーの二度目の来日に当たる1854年に横浜で日米和親条約の締結が行われました。
その際にペリーが引き連れていた軍艦は何隻くらいだったと思いますか?
横浜の歴史を伝えるペリー提督日本遠征記という資料
「ペリー提督日本遠征記」という書籍は鎖国を貫いてきた日本の様子が描かれています。
ペリーが1852年11月にアメリカの西海岸のカリフォルニアを出発し、1855年1月に東海岸のニューヨークに到着するまでの二度の訪日を含む2年2ヶ月の遠征を公式文書やペリーを含む乗組員の日誌を元に編纂された貴重な記録です。
鎖国を続けていた日本の人たち同様にアメリカの人たちも日本という閉ざされた国に興味を持っていたことが読み取れます。
二度目の来日で1854年に現在の山下公園付近の横浜村に上陸したペリーは日本人の風俗習慣を観察し記録として公式の報告書として提出したのです。
横浜の歴史を簡単にざっくり知ろう
私も旅行が好きで色々な観光地を訪れますが、できればその土地の歴史や背景を事前に知っておくと、単に「行ったことがある」というだけでなく往時の様子を思い浮かべ深く楽しめます。
とはいえ、観光地について深く知ることは現実的にはなかなか難しいものです。
そこで横浜の観光地を訪れる際には、横浜の歴史を「4つの出来事」を境にして「5つの時代区分」で考えると簡単でざっくりと理解しやすくなります。
「ペリー提督日本遠征記」は1853年の黒船来航の前後の様子が描かれており、1854年の二度目の来訪時に横浜で締結された日米和親条約は「横浜開港以前」の時代区分に属する出来事ということになります。
ペリー提督日本遠記という横浜の歴史資料
横浜では1859年の開港を祝って毎年6月に「横浜開港祭」が行われますが、開港直前の横浜の様子をこの「ペリー提督日本遠征記」から知ることができるのです。
中華街や元町、山下公園といった横浜を代表する観光地が横浜開港以降に大きく発展していったことはよく知られています。
1853年にペリーが一度目に日本に訪れ、二度目の1854年に横浜に上陸し視察を行い記録に残したということは「横浜開港以前」の時代区分の横浜の姿が描かれているということです。
書籍では横浜村で暮らす人々の服装や髪型、階級社会の実情や女性の地位について観察し考察されています。
個人的に「ペリー提督日本遠征記」という書籍が貴重であると考えている理由は歴史資料として信頼性が高いと感じている点です。
歴史家が編纂、ペリーが監修
現在、私たちが読むことができる日本語版の「ペリー提督日本遠征記」がどのように作成されたのかを整理してみましょう。
1854年に横浜に上陸したペリーたちは当時の横浜の様子を観察し公式報告書や日誌などの記録に残しました。
1855年にペリーがアメリカに帰国後、議会から遠征の報告書を求められ歴史家のホークスに記録資料を手渡し編纂の指示を出しました。
歴史家であるホークスは医学博士のトームズの助けを借りながら、興味深い事柄や重要な事実を資料群の中から抽出します。
そもそもペリー自身が資料群からの抽出と編纂を行わなかったのは第三者の視点で遠征記をまとめあげることにより、最も内容豊かな記録を議会に提供するという目的を果たそうとしたからだと書かれています。
このペリーの意図を理解した歴史家のホークスは資料群に記載された事実だけを取り上げ、編纂者としての考察は一切差し控えました。
こうして議会の命令から1年足らずの1856年に刊行され、現代、翻訳された日本語版を私たちは読むことができるのです。
伝言ゲームではありませんが、記録、抽出、編纂、翻訳の過程の中で人が介在することでどうしても原型が変わりますが、それらの過程でペリーの意図が反映されているのではないかと期待できる歴史的な資料です。
改めてペリーは抽出、編纂を歴史家のホークスに丸投げしたわけではなく、自身の監修のもとに制作され、記された諸事実の記述にすべて責任を負う旨の一筆が本書には加えられています。
歴史上の人物ペリーはなぜ横浜村に上陸したのか?
信頼性が高いと考えられる「ペリー提督日本遠征記」から1854年の横浜上陸時の様子を見ていきましょう。
日本再訪時は何隻の艦隊だったのか?
冒頭にクイズとして出題した1854年の日本再来訪時にペリーが引き連れていた軍艦の数について記載がされています。
正解は、Cの9隻です。
歴史では「諸説あります」というのが定番ですが、ペリーの意図が反映されているであろう「ペリー提督日本遠征記」には9隻と書かれており、内訳は蒸気艦が3隻、帆船が6隻です。
- 旗艦ポーハタン号(蒸気艦)
- サスケハナ号(蒸気艦)
- ミシシッピ号(蒸気艦)
- マセドニアン号(帆船)
- ヴァンダリア号
- サラトガ号(帆船)
- サザンプトン号(帆船)
- レキシントン号(帆船)
- サプライ号(帆船)
山下公園や大桟橋の観光地から横浜湾を望む際には9隻のペリー艦隊を思い浮かべてみてはいかがでしょう。
なぜ神奈川ではなく横浜村だったのか?
9隻のペリー艦隊が停泊したのは横浜村沿岸でしたが、なぜ神奈川沿岸ではなかったのでしょう。
「横浜開港以前」の時代区分に当たる当時、横浜村よりも神奈川の方が大きな町で、横浜村から約5kmの北に神奈川は位置しだったと記録されています。
確かに開港後に急速な発展を遂げた現在の元町周辺の横浜村ならいざしらず、旧東海道沿いで宿場が置かれていた神奈川ではなく横浜村沿岸をペリーは停泊地として選んだのでしょう。
本書によると軍艦の射程距離に関係がしていたようです。
横浜村沿岸には9隻もの軍艦が戦列を組んで投錨できる空間があることに加え神奈川沿岸だと陸地への射程距離内に軍艦が近づくことができないという軍事的な事情が神奈川沿岸ではなく横浜村沿岸を選んだ理由でした。
もし神奈川沿岸の軍艦からの射程距離内に9隻の軍艦が戦列を組める海上の空間があれば歴史は少し変わっていたのかもしれません。
まとめ
「ペリー提督日本遠征記」という歴史資料としての価値とそこから得られる横浜の歴史の一端を紹介しました。
1854年、旧東海道沿いの神奈川沿岸ではなく横浜村沿岸に投錨したペリーはその後、横浜に上陸します。
ペリーが観察した「横浜開港以前」の時代区分の横浜の様子をもう少し知りたくなりました。
その意味でも本書は貴重な歴史の資料のように思います。
参考文献
ペリー提督日本遠征記【上下 合本版】 (角川ソフィア文庫)
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志