Sponsored Links

ぴよぴよ

日本は敗戦を経験している国だよね


みかんみかん

産業技術の側面から考えられる敗戦の要因もあるんだろうね


分厚い書籍「産業技術史」を読みながら、私なりに5つの時代区分に分けてみました。今回は、第2期の世界大戦期の1914年から1945年の産業技術の歴史を整理してみましょう。第一次世界大戦が始まる前夜1913年までの第1期の世界大戦前では、横浜開港以来、「官」と「民」の両面から経済とともに産業技術が発展したことを知りました。また貿易赤字というネガティブな状況の中、リバースエンジニアリングという手法で海運や造船、それに製鉄など業界で内製化を果たし、現在も続く多くの企業が誕生したようです。こうした流れの中で、1914年に第一次世界大戦が勃発し、1945年に第二次世界大戦が終結するまでの歴史の渦の中に日本も巻き込まれていきます。

産業技術史の5つの時代区分

1. 第1期 世界大戦前:1913年まで
2. 第2期 世界大戦期:1914年〜1945年
3. 第3期 世界大戦後:1946年〜1954年
4. 第4期 高度成長期:1955年〜1973年
5. 第5期 成長期以降:1974年〜

Sponsored Links

第2期 世界大戦期:1914年〜1945年

1914年に勃発した第一次世界大戦は1919年に終結します。日本では戦後恐慌に陥り、更に1923年に関東大震災が発生しました。横浜も大きな被害を受け、たとえば今も人気の観光地である大さん橋も壊滅的な被害を受けました。さらに1930年に昭和恐慌に陥り、日本の歴史に暗雲が立ち込め、1933年に国際連盟を脱退し、世界では1939年にドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発し、1941年の真珠湾攻撃を機に日本も本格的に戦いの渦に巻き込まれていきました。世界で初めて原子力爆弾が使用され、第二次世界大戦が終結したのは1945年。これらが1914年から1945年の日本を取り巻く主な出来事です。
【第2期】1914年〜1945年の産業技術史

Sponsored Links

日本経済の二重構造

世界大戦期には、日本の経済界に、大企業群と中小企業群という2つの構造が形作られていたようです。大企業群は、政府の助成育成策に基づいて、資本財・中間財・原材料を担っていたようです。具体的には、鉱山・紡績・鉄道・海運・造船・重機械・製鉄・銅精錬・重電機の分野で、一般消費者に直接何かを提供するというより、社会のインフラというべき産業群で、今どきで言うと「B to B」といったイメージでしょうか。もう一つの中小企業群は地場産業や町工場と呼ばれ、織物・衣類・機械・刃物・食器・建築金具・自動車部品の分野であり一般消費者に直接何かを提供する「B to C」といったイメージかもしれません。この中小企業群が産み出す産業の方が、大企業群に比べ輸出の大部分を担っていたようです。政府の力を借りて、大企業群が産業の基盤を整え中小企業群が実際の儲けを産み出すという構造と言えるのでしょう。

Sponsored Links

産業技術の2つの弱点

1859年の横浜開港以来、江戸時代からの知識と経験を活かし、紆余曲折がある中で産業の内製化を果たした世界大戦前までの歴史。世界大戦期は政府が支援する大企業群と実際の儲けを輸出から産み出す中小企業群によって日本の産業が確実に発展しているように見えます。ただ、そこには大きな弱点が2つあったと本には書かれています。

研究開発能力と大量生産技術

世界大戦期に露呈した日本の産業技術2つの弱点とは、研究開発能力と大量生産技術の不足だったようです。例として挙げられているのは、海外でレーダーとして活躍した技術は、もともと日本で発明された「指向性アンテナ」だったという内容です。指向性アンテナ、通称「八木アンテナ」は東北大学の八木秀次と宇田新太郎による発明にも関わらず、レーダーとして実用化したのは残念ながら日本ではなく外国だったようです。研究を開発にまで導く能力が不足していたということかもしれません。

大量生産技術という点でも、外国に比べると不足していたようです。もう少し正確に言うと、大量生産の「規模感」ということかもしれません。例として挙げられているのは、豊田自動織機(トヨタ自動車)や戸畑鋳物(日産自動車)もラインによる生産は行っていたようですが、フォードやGM(ジェネラル・モーターズ)の量産の規模に比べると小規模と言わざるをえなかったようです。標準化・専用工作機・互換性部品・金型による加工などアメリカの大量生産技術は日本よりも優れていたようです。

敗戦の致命的要因

こうした日本の産業技術の2つの弱点を理解し、下記のような様々な研究施設を創設したようです。ただ、そうした弱点が完全に克服するのは簡単なものではないのでしょう。レーダーだけでなく、原子力爆弾、電子計算機、ジャット機、B29戦闘機といった軍事を支える技術がアメリカでは実用化され、さらに日本と異なる規模感で大量に生産されたようです。こうした2つの日本の弱点を完全に克服されないまま敗戦の致命的な要因となって1945年を迎え、世界大戦期の終わりを迎えます。

世界大戦期に創設された研究施設

1916年 航空研究所(東京帝国大学)
1917年 理化学研究所(官民一体)
1918年 電気試験所(逓信省)
1922年 金属材料研究所(東北帝国大学)

Sponsored Links

「結果」が重要な時には

日本の敗戦の要因として、大量生産の規模感が、アメリカと日本では大きく隔たりがあったということかもしれません。大学試験に向けた受験勉強やビジネスにおいてスキルを身につけなければならない際に、自分自身の成長の進捗管理だけでなく、周りの人達の達成度も理解しておく必要があるということに似ているのかもしれません。現実的に考えると、自分を成長させるだけでも精一杯で、なかなか他人の達成度合いまで注意を払うのは簡単なことではないように感じます。ただ、もし結果ということにこだわるのであれば必要なことなのだろうなとは思います。孫子の兵法の「彼を知り、己を知らば、百戦百勝あやうからず」という言葉が思い出されます。

改めて、歴史はいろいろなことを教えてくれるものだと興味がさらに湧いてきます。産業技術史の「世界大戦前」「世界大戦期」の流れを踏まえ、この後の「世界大戦後」の日本の産業技術はどうなっていったのでしょうか。

参考文献

新体系日本史11「産業技術史」中岡哲朗等 著

このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。

最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志

Title toji-taishi-no-bibouroku途次大志のプロフィール紹介

Sponsored Links