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ぴよぴよ

横浜駅構内はいつも人がいっぱいだよね


みかんみかん

いつ頃から横浜駅周辺は賑わいだしたんだろうね

横浜駅西口の歴史
開港100年後やっと
高島屋・ダイヤモンド地下街
登場
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。「途次大志の備忘録」の執筆者で横浜駅をよく利用する途次大志(toji-taishi)です。

横浜の玄関口と言えば横浜駅ですよね。それなのに横浜駅構内は決して歩きやすいとは言えません。日本のサグラダ・ファミリアと呼ばれ続け「いつになったら歩行者に優しい駅になるのだろう?」と感じている人も多いのではないでしょうか。

横浜駅の歴史を考えると「やむを得ない」と思えてくるかもしれません。

横浜駅発展のキーワード
  • 関東大震災と横浜大空襲
  • 日本とアメリカによる接収
  • 相模鉄道(相鉄)の奮闘
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横浜駅西口の歴史は開港100年後から

4つの出来事と5つの時代区分YRK10
横浜が開港とともに発展してきたことはよく知られています。現在の横浜駅周辺はいつ頃から発展してきたのでしょう?横浜の歴史を「4つの出来事」で「5つの時代区分」に分け「どの時代区分から発展し始めたのか」を探ってみました。

横浜の歴史の「5つの時代区分」
  1. 横浜開港(1859年)以前
  2. 横浜開港(1859年)以降
  3. 関東大震災(1923年)以降
  4. 横浜大空襲(1945年)以降
  5. 横浜博覧会(1989年)以降

関東大震災後に現在の横浜駅の場所へ

3代目横浜駅に至る変遷
1872年に日本に初めて鉄道が走り始めた時に「横浜駅」と呼ばれた駅は現在の桜木町駅であることはよく知られています。大阪と東京を結ぶ東海道線が1889年に開通すると、横浜駅(現桜木町駅)でスイッチバックが必要になり著しい時間ロスの原因となってしまいました。スイッチバックによる時間ロスを解消するため1915年に2代目横浜駅が高島町周辺へと移動し、大阪と東京間の東海道線はスイッチバックを必要とせず直通運転ができるようになりました。

2代目横浜駅が誕生して10年も経たないうちに関東大震災(1923年)が発生し、1928年に現在の場所へ横浜駅(3代目)が移動することによって東海道線はより直線的に大阪と東京を結ぶことができるようになりました。いずれにしろ1859年の横浜開港から約70年後に現在の場所に横浜駅がやってきました。

3代目横浜駅に至る変遷

1872年 新橋−横浜間に鉄道開通(初代横浜駅)
1889年 大阪−東京間に東海道線開通(スイッチバックの難点)
1915年 2代目横浜駅誕生(スイッチバック解消)
1928年 3代目横浜駅誕生(現在の場所)

戦前の横浜駅は「日本一淋しい駅前」

横浜駅と桜木町駅の乗車人員
横浜開港(1859年)から約70年後の1928年に現在の場所へやってきた3代目の横浜駅の周辺はその頃から発展し始めたのかというと、そうではありません。1930年代前半に東急、京急、相鉄の私鉄が3代目横浜駅に乗り入れてきますが、それでも横浜駅周辺は発展しません。太平洋戦争集結(1945年)前の「ハマの銀座」と呼ばれていた場所は伊勢佐木町であり、現在の横浜駅周辺は「日本一淋しい駅前」と呼ばれていました。「ハマの銀座」に近い桜木町駅の乗車人員(国鉄)を横浜駅が超えるのは戦後14年を経た1959年まで待たなければなりません。

1959年つまり横浜開港(1859年)からちょうど100年後にやっと現在の横浜駅が発展し始めたのです。

横浜駅と桜木町駅の一日当たりの乗車人員

1956年 横浜駅<桜木町駅
横浜駅:59,902人/日
桜木町駅:73,256人/日
1959年 横浜駅>桜木町駅
横浜駅:90,803人/日
桜木町駅:83,324人/日

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急激に発展した横浜駅

横浜駅と大阪駅の乗車人員比較
関東大震災(1923年)後の1928年に現在の場所に横浜駅(3代目)が誕生しながら、その後、太平洋戦争を経て横浜開港から100年後の1959年になって、ようやく発展し始めた横浜駅周辺の歴史を感じていただけたでしょうか。

2017年の横浜駅と大阪駅のJRの一日当たりの乗車人員は約40万人/日でほぼ同程度です。しかし約60年前(1959年)の大阪駅はすでに一日に約20万人が乗車するビッグターミナルであったことを考えると、横浜駅がいかに急激に発展していったのかを容易に想像できるのではないでしょうか。国鉄(またはJR)のみの乗車人員だけを比べてみても、1959年から2017年まで大阪駅が約2倍の増加に対して横浜駅は約4倍強の増加を果たしました。

もともとビッグターミナルとしての下地があった大阪駅に対し、横浜駅はビッグターミナルとしての下地を積む余裕がないままに急激に乗車人員が増加したという経緯を知ることができます。歩行者にとって南北の移動もしやすい現在の大阪駅に比べると、横浜駅は「やむを得ない点」があることを歴史が教えてくれるように感じます。

横浜駅と大阪駅の一日当たりの乗車人員

1959年 横浜駅<<大阪駅
横浜駅:90,803人/日
大阪駅:198,800人/日
2017年 横浜駅≒大阪駅
横浜駅:420,192人/日
大阪駅:436,187人/日

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「5つの時代区分」による横浜駅西口の歴史

横浜駅周辺は「5つの時代区分」の4番目の「横浜大空襲(1945年)以降」になってようやく発展し始めたということになります。「関東大震災(1923年)以降」の1928年に現在の場所に横浜駅(3代目)が誕生しながらも、依然として横浜の中心地は2km離れた関内や伊勢佐木町でした。桜木町駅の乗車人員の方が多い状況が30年も続いていた横浜駅にとって、開港100年後に突然訪れた急激な発展の歴史をもう少し詳しく知りたいものです。今では横浜駅西口の顔とも言える高島屋やダイヤモンド地下街が誕生したのは「横浜大空襲(1945年)以降」のそれぞれ1959年と1964年です。

いったいなぜ伊勢佐木町や関内周辺の「ハマの銀座」に代わり、1950年代に急に横浜駅周辺が発展し始めたのでしょう。横浜の歴史を「5つの時代区分」で眺めていくと、本記事の文頭でご紹介した「横浜駅発展のキーワード」の3つのキーワード「関東大震災と横浜大空襲」「日本とアメリカによる接収」「相模鉄道(相鉄)の奮闘」が見えてくるでしょう。続編となる記事では「関東大震災と横浜大空襲」「日本とアメリカによる接収」「相模鉄道(相鉄)の奮闘」の3つのキーワードで横浜駅の発展をより詳しくご紹介致します。

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まとめ

開港100年後 横浜駅の急激な発展
横浜開港100年後の1959年に初めて桜木町駅の乗車人員を横浜駅が超えました。1928年に3代目として現在の場所に誕生し、1930年代前半には私鉄が乗り入れてきたにも関わらず、30年間ずっと「ハマの銀座」は桜木町駅近くの関内周辺でした。きっと1928年から30年間の横浜駅はつらかったことでしょう。「日本の幹線である東海道線が走り、私鉄が3本も乗り入れているボク(3代目横浜駅)の周りは『日本一淋しい駅前』と呼ばれ続けてしまうのだろう(涙)」そんな3代目横浜駅も今では大阪駅と肩を並べるビッグターミナルへと大きな発展を遂げたのです。

現在の桜木町駅の乗車人員から大阪駅と同程度の乗車人員へと1959年以降に横浜駅が成長していったと考えることができるかもしれません。つらい時期を乗り越え、ビッグターミナルとして下地がないところに突然やってきた急激な発展の歴史を知ると横浜駅に親しみを覚えてしまいます。

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参考文献

横浜市統計書
都市交通年報
鉄道と街・横浜駅
「地図」で探る横浜の鉄道
都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして

最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志

Title toji-taishi-no-bibouroku途次大志のプロフィール紹介

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