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ぴよぴよ

横浜駅の西口周辺はずっと栄えていたんだろうな


みかんみかん

いやいや実は戦後10年後にやっと栄え始めたんだよ

このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。

「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。

日本初の鉄道は横浜駅と新橋駅の間に開通したことはよく知られています。横浜という地名は歴史の教科書にも出てくるくらいだし、横浜駅周辺も少なくとも明治時代の頃から今のように賑わっていたのだろうという勝手な思い込みがあるものです。

幼い頃からなに不自由なく裕福に暮らしてきたのだろうと思っていた人が、実は周囲がどんどん成長していく環境で泣かず飛ばずの時代を長く過ごしてきたのかと知るとなぜか愛着が湧くものです。

現在の姿からは想像しにくいですが、実は横浜駅西口周辺も明治時代以降に周りがどんどん発展してく中で取り残され、挙げ句の果ては「日本一寂しい駅前」と呼ばれる時期が長らくありました。

横浜駅西口周辺の歴史ポイント
  • 横浜開港から100年後まで荒地
  • 1955年頃からやっと開発スタート
  • 秘められた発展の可能性
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横浜駅西口の賑わいの歴史は1930年頃から

YRK27写真横浜駅西口案内
まず1872年(明治5年)に日本で初めての鉄道が開通しますが、開業当時の横浜駅は現在の桜木町駅の場所にある駅であり、そもそも現在の場所に横浜駅がやってきたのが1928年(昭和3年)のことでした。

それならば1928年(昭和3年)を皮切りに横浜駅西口周辺が今のような賑わいをみせ始めたのかというと残念ながらそうではありません。昭和の戦争が1945年(昭和20年)に終結し、さらに10年の月日が流れた1955年(昭和30年)頃にやっと横浜駅西口周辺が賑わいの起点に立ちました。

身の回りのことを知っているということは良いことでしょうが、いざ調べるとなると面倒なものです。参考になる書籍を読んだとしても、なかなか記憶に残しておくのも難しいものです。

歴史の中の横浜駅西口周辺の様子についてざっくりと整理をしてみました。

横浜駅西口周辺の年表

YRK27横浜駅西口周辺の年表
横浜駅西口周辺の歴史を知るために書籍「横浜西口開発物語」を参考にしました。横浜に20年以上暮らしていても知らないことばかりです。

みなとみらい地区が埋立地で、昔は海だったということを知っていたとしても、横浜駅周辺も同様に昔は海だったと知る人はどれくらいいらっしゃるでしょう。

富士山の噴火や江戸時代の新田開発に加え、1872年(明治5年)の現在の桜木町駅(初代横浜駅)と新橋駅を結ぶ鉄道敷設により、現在の横浜駅西口付近にも埋め立てられて陸地が増えていきました。

明治40年(1907年)頃のこの現在の横浜駅西口周辺の土地には、アメリカ企業の石油工場が立ち並んでいました。しかし1923年(大正12年)の関東大震災で石油工場が炎上してしまいました。その後、大正時代は砂利・材木・石炭置き場として荒地として、この地は過ごすことになりました。

昭和に入った1928年(昭和3年)に現在の横浜駅の場所に移り、横浜駅東口には立派な駅舎が建てられましたが、横浜駅西口周辺は相変わらずの荒地でした。1932年(昭和7年)に現在の相鉄が横浜駅に乗り入れますが、まだまだ荒地が続きます。

やがて太平洋戦争が始まり、港湾に近く大阪と東京を結ぶ東海道線が走る横浜駅西口周辺は日本海軍の資材置場として使用されます。歓楽街としての街の賑わいはありません。戦争が終わったら終わったで、今度は米軍が接収地として砂利置き場として使用されます。

接収を経て1951年(昭和26年)に再びアメリカ企業の所有になります。戦後、都市部の駅周辺が復興を果たす中、横浜駅西口周辺は相変わらずの荒地のままです。

開港に始まった明治の急成長の時代も取り残され、大正のデモクラシーで近代化していく時代も取り残され、昭和の戦後復興の時代にもスタートが遅れた横浜駅西口周辺の様子が目に浮かびます。人が溢れ活気のある現在の横浜駅西口周辺を誰が想像することができたでしょう。

昭和30年頃の横浜駅周辺状況

YRK27横浜駅は好条件なのに
成長の時代に取り残され、不遇の時を過ごしていた横浜駅西口周辺に光が指しはじめたのが1954年(昭和29年)でした。戦後10年を経て、相鉄が横浜駅西口周辺の開発プロジェクト「ターミナル計画」を開始しました。

ずっと賑やかな駅前に変貌することがなかった横浜駅ですが、現在の姿へと発展する潜在的な可能性は1955年(昭和30年)に既に存在していました。

鉄道に関しては、横浜駅にはすでに東海道、湘南、京浜東北、京浜急行、東横、相鉄、市電の実に7路線が乗り入れており、乗り換え客も一日当たり25万人で全国6番目でした。終戦の年の1945年(昭和20年)に横浜を襲った大空襲で半減した人口も回復基調で、横浜市民の個人所得も東京に次ぐまでに都市として回復していました。市民と都市化の成長の一方で、横浜には主な消費の場であった百貨店が不足しており、百貨店の売上は6大都市の平均を下回っていました。さらに横浜市や商工会議所が主導となって地元での消費を促す運動も行われていました。

歴史的に不遇の時代を過ごした横浜駅西口周辺は、内在した可能性を爆発させるかのように相鉄の大規模な開発プロジェクトを機に現在の姿へと成長していくことになったのです。

プロジェクトの進行とともに、高島屋が誘致され、ダイヤモンド地下街が誕生し、1981年には横浜駅の東口と西口を結ぶ東西自由通路が整備され、現在の横浜駅に近い姿となっていったのです。

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伏すこと久しきは飛ぶこと必ず高し

YRK27写真横浜駅相鉄
今の横浜駅西口周辺の賑わいは1955年(昭和30年)頃の相鉄の開発を出発点にしていると言えるでしょう。

1859年(安政6年)に横浜が開港して以降、横浜を代表する歓楽街は関内周辺でしたが、横浜駅西口周辺も1955年(昭和30年)以降に加わることになります。開港から約100年間経過しましたが、東京と大阪を結ぶ東海道線が通る横浜駅の駅前でありながら「日本一寂しい駅前」と言われ続けた歴史が変わっていったのです。

その後、横浜は中華街や山下公園のある関内周辺とみなとみらい、そして横浜駅周辺の3つの繁華街を結ぶ広大な歓楽街へと発展していったのは現在の我々がよく知る通りです。

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まとめ

YRK27写真横浜駅西口全体
歴史の教科書にも登場する横浜という地名から、横浜駅西口周辺も昔から栄えていたのだろうと無意識に感じてしまいます。実際の横浜駅西口周辺の歴史を調べてみると、かつて石油工場が建っていたことがあったとしても震災で火災被害を受け、その後は、所有者もコロコロと入れ替わり、せいぜい資材置き場として活用され、ほぼ荒地として広がっていた土地であったことがわかります。

勝手な思い込みというのは怖いものですね。

歴史を知ると、他の主要都市と比べて賑やかな時期が意外にも浅い横浜駅西口周辺という土地に愛着が深まります。

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参考文献

書籍「横浜西口開発物語」岡 幸男著

最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志

Title toji-taishi-no-bibouroku途次大志のプロフィール紹介

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