みなとみらい周辺って仕事でも観光でも素敵な街だね
横浜の街の発展には「くさび」と「かすがい」の形を知っているともっと楽しめるよ
こんな人にオススメ
- 横浜の街づくりの歴史をざっくり知りたい人
- 横浜で暮らしている人
- 仕事や観光で横浜に訪れる人
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者で身近なことを知ると楽しい途次大志(toji-taishi)です。
つくづく身の回りのことを少し知ることは楽しいことだと感じます。
横浜に20年暮らし、みなとみらいや関内、横浜駅周辺にも何度となく出掛けてきましたが、横浜のまちづくりの歴史に米軍による「占領」ということが関係していることを改めて理解できました。
みなとみらいに観光や仕事で訪れる人も、横浜駅を利用して横浜開港祭に出掛ける人も、関内のジャズイベントを楽しみにされている人も、横浜のまちづくりの歴史をざっくり知るとさらに深く横浜を楽しむことができます。
- 1859年横浜開港以降:1つめの「くさび」関内周辺
- 1945年横浜大空襲以降:2つめの「くさび」横浜駅周辺
- 1989年横浜博覧会以降:「かすがい」の完成、みなとみらい周辺
横浜まちづくりの歴史をざっくり知るために
横浜の歴史に関する書籍はたくさんあり、横浜の様々な側面から集められた情報が整理され執筆者による考察が加えられています。
今回は東京都庁舎や代々木第一体育館、1970年の大阪万博の大屋根で知られる東京大学の丹下健三氏の弟子の一人と呼ばれる田村明氏の「都市プランナー 田村明の闘い」という書籍を参考に横浜まちづくりの歴史を調べていきます。
横浜の歴史の4つの出来事と5つの時代区分
横浜の歴史に関するたくさんの情報を私なりに整理するために、整理棚の役割として「4つの出来事」を境とした「5つの時代区分」で考えています。
- 1859年 横浜開港
- 1923年 関東大震災
- 1945年 横浜大空襲
- 1989年 横浜博覧会
横浜で起きた数多くの歴史的イベントをひとつひとつ年号も合わせて全て覚えるのは凡人の私では到底できません。
そこで横浜開港(1859年)、関東大震災(1923年)、横浜大空襲(1945年)、横浜博覧会(1989年)の「4つの出来事」とその年号だけを覚えておき、それらで分けられた「5つの時代区分」で横浜の歴史のざっくりとした流れを知っておきたいと考えています。
これまでいくつかの横浜の歴史をこの「4つの出来事」と「5つの時代区分」で分類して整理してみましたが、なかなか応用性が高い整理棚だと我ながら気に入っています。
横浜まちづくりのキーワード「くさび」と「かすがい」
横浜まちづくりの歴史について知っていく前に「くさび」と「かすがい」というのはご存知でしょうか。
「楔(くさび)形文字」や「子は鎹(かすがい)」で使われる「くさび」と「かすがい」のことです。
この「くさび」と「かすがい」の形が横浜まちづくりの歴史のキーワードになるので記憶の確認も含めて触れておきます。
- 「くさび」とは「V」字型
- 「かすがい」とは「コ」の字型
「くさび」とは石材を割る時に使用する「V」字型をした道具で、「かすがい」とは木材同士をつなぎ合わせる際に使用する「コ」の字型をした道具です。
横浜まちづくりの歴史を知るためには「くさび」と「かすがい」の用途や材質が重要ではなく「くさび」と「かすがい」の形を知っておくと楽しく理解できます。
横浜駅の位置の変遷
横浜だけでなくまちづくりの歴史には鉄道の変遷が影響しそうなことは容易に想像できます。
まずは横浜駅の位置の変遷について確認しておきます。
横浜に住む多くの人がご存知の通り、現在の桜木町駅が初代の横浜駅でした。
日本初の鉄道として知られる品川と横浜を結んだ1872年の「横浜駅」とは現在の桜木町駅で、その後、1915年に現在の高島町に2代目の「横浜駅」が移設されます。
2代目の高島町の横浜駅が1923年の関東大震災で被害を受けたこともあり、震災後の1928年に現在の位置に3代目として「横浜駅」が移設されました。
この横浜駅の位置の変遷だけを見れば、現在の横浜駅周辺の街並みは現在の位置に移設された1928年直後に発展しはじめ、1945年の横浜大空襲つまり終戦を迎える頃には現在の原型となるほどの賑わいだったのだろうと想像してしまいます。
残念ながら1945年の終戦(横浜大空襲)までの横浜駅周辺の街並みは発展しているとは言えず、戦後になってようやく今の賑わいを感じさせる発展を遂げることができました。
関東大震災の5年後には現在の位置に移設され東京と大阪を鉄道で結ぶ東海道線が通りながら終戦まで街並みの発展が見られなかった横浜駅周辺がなぜ戦後以降に発展し始めたのでしょう?
横浜駅周辺とその後のみなとみらい周辺の発展には米軍による「占領」という、もうひとつのキーワードが浮かび上がってくるのです。
横浜まちづくりの歴史は関内から横浜駅、みなとみらいへ
横浜を訪れる観光客は毎年3,000万人を超えています。
華やかなみなとみらいの誕生には関内の発展、横浜駅周辺の発展、そして米軍の「占領」という歴史が絡み合っています。
- 横浜開港(1859年)以前
- 横浜開港(1859年)以降
- 関東大震災(1923年)以降
- 横浜大空襲(1945年)以降
- 横浜博覧会(1989年)以降
横浜まちづくりの歴史をご紹介した「5つの時代区分」を下敷きにして整理しています。
横浜開港以前:ハリスは横浜開港にガックリ
今から160年以上前の1859年横浜開港以前の横浜の人口はわずか500人足らずでした。
横浜市の人口が370万人を超える今となっては信じられない横浜の様子ですが、どうやら日米修好通商条約の締結で訪れたアメリカ側にとっても「騙された!」と思うような町、いや「村」だったようです。
1858年に締結された日米修好通商条約で横浜が開港地として指定されましたが、もともとアメリカ側は江戸の開港を希望し、日本は治安維持の不安などから「神奈川」を提案しました。
ハリスらアメリカ側はてっきり街道沿いの神奈川宿だと捉え、渋々ながら日本側の「神奈川」開港の提案を受け入れましたが、日本側は同じ神奈川でも「横浜村」を開港場所に指定したのです。
当時の横浜村は街道の東海道からは徒歩によるアクセスが不便で、むしろ船によるアクセスの方が便利なほどの小さな村だったのです。
日本側は可能な限り日本人とアメリカ人の接触を嫌ったと考えられていますが、いずれにしろアメリカ側にとって横浜は望んだ港ではなかったのです。
横浜開港以降:関内周辺の発展
アメリカ側に望まれた訳でもない開港後の横浜は現在の関内を中心に大きく発展していきます。
現在の京急の日ノ出町駅付近から横浜湾へと広がる「吉田新田」と呼ばれる釣鐘状の陸地も含め「開かれた港町」横浜が発展していったのです。
海沿いの関内から「吉田新田」の陸地hと続く周辺地域がまるで「V」字型の「くさび」の形を作るかのように発展していきました。
横浜まちづくりの歴史をざっくり知るキーワードの1つめの「くさび」が形成されていったのです。
関東大震災以降:横浜駅が現在の位置へ
1923年、関内周辺に発展してきた横浜に関東大震災が起こります。
横浜の被害は書籍「横浜の関東大震災」に「海岸より望見すれば残存する家屋なし」と書かれているほどの大きな被害を受けました。
震災時には「横浜駅」は初代の現在の桜木町からすでに高島町に移されていましたが、1つめの「くさび」である関内周辺を中心として震災後も発展が続きました。
関東大震災の5年後の1928年に「横浜駅」は現在の位置に移設されましたが、発展を続けている関内から見れば現在の横浜駅の西口側は「駅裏」に当たり東口側も含め横浜駅周辺は関東大震災以降も大きな発展は見られませんでした。
戦前に立派な横浜駅の駅舎は建てられ国道も駅前を走っていましたが、現在の横浜駅周辺の姿を知る私たちには容易に信じにくいことですが、戦後を迎えるまで街と言えるのはほんの一画だけで石炭や砂利置き場が目立つ場所だったようです。
横浜大空襲以降:横浜駅周辺の発展
関東大震災後の1928年に現在の位置に横浜駅が移設されながら一向に発展しなかった横浜駅周辺が1945年の横浜大空襲以降、正確には終戦以降に発展していきます。
マッカーサーが山下公園近くの横浜ニューグランドホテルを占領軍の本拠地とし約10万人のアメリカの占領軍が横浜に居住し始めました。
戦後直後、全国(沖縄を除く)のアメリカ軍の占領地の約6割が横浜に存在したと言われており、1つめの「くさび」であり唯一の発展した街である関内周辺はアメリカの接収地として占領されてしまいました。
接収地としてアメリカ軍に占領されるということはもともとその場所に暮らしていた人たちが追い出されてしまうということです。
こうして関内周辺という発展した街を一時的に失った横浜は2つめの「くさび」として現在の横浜駅周辺を発展させていきました。
終戦から約10年後に関内周辺の多くの土地がアメリカ軍の占領から開放され、高度経済成長の追い風を受け関内周辺と横浜駅周辺が2つの「V」字の「くさび」となって開発が進んでいきました。
横浜駅周辺には百貨店が立ち並び地下街が造られたのも1945年の横浜大空襲以降つまり戦後なのです。
横浜博覧会以降:みなとみらい周辺の発展
バブル景気と全国で流行り始めた「ウォーターフロント開発」の追い風もあり、関内周辺と横浜駅周辺に2つの離れた「くさび」を結びつけるためにみなとみらい地区の開発が進みました。
1989年の横浜博覧会の跡地に誕生したのが華やかなみなとみらい地区です。
もともと造船所や鉄道の操作場があった現在のみなとみらい地区の開発は横浜市が中心になって進められました。
関内周辺と横浜駅周辺の2つの「V」字型の「くさび」を海沿いで結びつけるみなとみらい周辺の発展により横浜に「コ」の字型の「かすがい」の形の発展したエリアが誕生していったのです。
現在では山手、中華街、山下公園、日本大通り、大桟橋、赤レンガ倉庫、みなとみらい地区と続く海沿のエリアは観光や仕事で訪れる人だけでなく横浜に住む私たちにとっても魅力的なエリアのひとつです。
まとめ
開港地としてハリスらアメリカ側が希望した場所ではなかった横浜は1859年の開港以降に1つめの「くさび」として関内周辺が発展していきました。
1923年の関東大震災で1つめの「くさび」に大きな被害を受けてもなお関内周辺は発展を続け、1945年の横浜大空襲で甚大な被害を受けただけでなく戦後には接収地としてアメリカ軍に占領されてしまいます。
占領された関内周辺に変わり高度経済成長の追い風を受けて2つめの「くさび」として横浜駅周辺が戦後に大きく発展しました。
占領から開放された1つめの「くさび」である関内周辺と戦後に大きく発展した2つめの「くさび」である横浜駅周辺を結びつけ「かすがい」の形で横浜を発展させるべくみなとみらい周辺が開発され、今の横浜の姿の原型が形作られてきたと言えるでしょう。
現在の華やかなみなとみらいの姿は「4つの出来事」と「5つの時代区分」の中で関内周辺の発展と横浜駅周辺の発展がなければ実現しなかったのかも?と感じるは私だけでしょうか。
そして横浜まちづくりの歴史の中に「占領」という戦争の存在があることも忘れてはいけないように思います。
参考文献
都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして
横浜の関東大震災
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志