横浜は異国情緒を感じる!ってよく言われるよね
横浜の歴史の転機には「外国人」との関係があるからだろうね
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。「途次大志の備忘録」の執筆者で歩行者が歩きやすい街が好きな途次大志(toji-taishi)です。
江戸時代にまだ横浜が「横浜村」と呼ばれていた頃は小さな漁村だったことはよく知られています。横浜元町商店街を訪れたことのある人なら「きっと、商店街のある場所が昔からの横浜村の人たちの中心地だったんだろうな」とぼんやりと思われるのではないでしょうか。私も何度となく横浜元町商店街を訪れていますが、歴史を調べてみるまでそう考えていましたが・・・。
- 横浜観光の目的は「街歩き」
- 横浜元町は横浜村民が元の町
- 外国人との縁が深い横浜元町
横浜元町商店街の歴史に欠かせない外国人
横浜元町商店街を散策していると海が目の前に見えるわけではなくとも港町の風情を感じます。運が良ければ埠頭に停泊している船から「ボーーーン」という汽笛が聞こえてきます。
横浜観光の目的は「街歩き」
横浜市の文化観光局観光振興課が発表した外国人旅行者への調査結果によると、横浜への来訪目的の上位3位は「日本の伝統文化」「日本食を楽しむ」「ショッピング」です。「街歩き」という来訪目的では、対象を日本とした結果に比べ横浜の方が高く、外国人旅行者が横浜の魅力として「街歩き」を求めていることがわかります。休みの日や仕事帰りに散策を楽しんでいる横浜在住20年の私たち夫婦にとって、実際に日々を暮らす住民の一人として横浜の魅力を海外の人が正しく理解してくれていることに喜びを感じます。
「街歩き」と言えば元町商店街
以前もこの「途次大志の備忘録」の記事でご紹介した通り、横浜という都市は計画的に整備されてきました。横浜駅舎こそ日本のサグラダ・ファミリアと呼ばれ、あまりにもスローペースな整備ではあるものの横浜駅、みなとみらい、関内、山手へと続く海沿いは散策には気持ちの良いコースです。
横浜元町商店街は休日には車の通行が制限され、店舗の2階部分が歩道の屋根の役割も兼ねているため日差しやちょっとした雨の日でも街歩きを楽しめます。石畳の車道が醸し出す雰囲気もありどこか異国情緒を求めて横浜元町商店街を歩きたくなるものです。横浜元町商店街の歴史を知るともっと街歩きが楽しめるのではないかと考え、書籍「港町の近代」や横浜元町ショッピングストリートの公式サイトを調べ始めました。
外国人との関わりが横浜の魅力に寄与
横浜元町商店街の歴史を調べていく中で、横浜元町と外国人との「縁」、関わり合いが深かったことに改めて気づかされます。そもそも横浜開港は江戸幕府の望みではなくアメリカなど外国人の望みによってもたらされました。開港後、外国人が横浜で暮らすようになり、日本人と外国人の交流の中で今現在の横浜へと続く発展が成し遂げられたのです。横浜元町商店街の歴史を眺めると、横浜元町という街の成り立ちとともに、外国人という存在がいかにこの港町に影響を与えたかということが深く理解できます。
横浜元町商店街の歴史を「5つの時代区分」で眺める
横浜の歴史を眺める上で「4つの出来事」で区分けした「5つの時代区分」で整理していくと理解しやすいです。
- 横浜開港(1859)年以前
- 横浜開港(1859)以降
- 関東大震災(1923年)以降
- 横浜大空襲(1945年)以降
- 横浜博覧会(1989年)以降
横浜の歴史を伝えてくれる情報はたくさんありますが、自分なりの整理棚を決めておくと点と点の情報が「線」で結ばれ「面」になっていき深く理解できます。横浜元町がどのように誕生し、横浜を代表する魅力的な街になったのでしょうか。その背景には外国人というキーワードが存在していたことを「5つの時代区分」で横浜元町商店街の歴史を整理することで眺めていきます。
1859年横浜開港以前の横浜元町商店街
まずは1859年の横浜開港以前の横浜元町の様子を眺めていきましょう。
横浜元町で暮らす人の先祖は横浜村の住人でした。横浜村の集落が現在の横浜元町にあったのかというとそうではないのです。少なくとも江戸時代初期は現在の横浜元町に横浜村の集落はなかったのです。横浜村の集落は今の山下公園から中華街までの土地に存在していました。
江戸時代初期にはまだ「吉田新田」や「横浜新田」や「太田屋新田」もなく、現在の横浜元町から北東へ伸びる半島状の付け根部分に横浜村の集落は広がっていました。現在の地形に近づいたのは横浜開港(1859年)直前の新田開発によるものです。これらの内容は書籍「港町の近代化」の中に描かれています。
- 【吉田新田】現在の大岡川と中川に囲まれた京急線の日ノ出町駅、黄金町駅、南太田駅の南西に広がる釣鐘状の土地で1667年に完成
- 【横浜新田】現在の中華街に広がる周囲の関内地区とは道路の角度が45度異なる土地で1796年に完成
- 【太田屋新田】現在の関内駅周辺のJR根岸線の北東に帯状に広がる土地で1856年に完成
1859年横浜開港以降の横浜元町商店街
1859年の横浜開港以降、横浜村の集落の住民に大きな転機が生じます。現在の日本大通りと横浜公園を境に北西部を交易関係の「日本人町」が発展してきます。関東大震災(1923年)以前に建てられた横浜市開港記念会館(愛称「ジャック」)や横浜正金銀行(現在の神奈川県立歴史博物館)の歴史的な建物は日本大通りよりも北西部にあることからも理解できます。北西部の日本人町に対して、日本大通りの南東部の横浜村の集落のある土地が外国人居留地として利用されることになり、1860年に現在の横浜元町に移転することになりました。
その後、横浜元町が商店街を中心に発展していきます。横浜元町にもともと横浜村の集落があったわけではなく、移転してきた住人によって築き上げられた街が商店街のある今の横浜元町ということなのです。
1923年関東大震災以降の横浜元町商店街
1859年に「外国人」の要望により横浜を開港し、「外国人」の住居として利用するために横浜村の住民が現在の横浜元町に移り住むようになりました。1867年に横浜元町の南の丘の山手地区に外国人の居留地が設けられ、横浜元町は地理的に南側と北側の外国人居留地に挟まれた位置となり輸入品販売などの商店街が発展していきました。もともと古くから漁業を中心に暮らしてきた横浜村の住民が新天地の横浜元町で商業を行うという第一次産業から第三次産業への大きな転換期を迎える背景には「外国人」という存在があったということではないでしょうか。
1860年以降、日本の輸入品を一手に扱い発展してきた横浜元町商店街でしたが、1923年に関東大震災で壊滅的な被害を受けます。大正、昭和の時代には東京を含めて全国に貿易港が開かれ、さらには1929年からの世界恐慌の影響で横浜元町商店街だけでなく横浜は激しいビジネス競争にさらされることになりました。
1945年横浜大空襲以降の横浜元町商店街
横浜以外の港でも貿易が行われるようになり輸入品という独自性が減少し、厳しい状況の横浜を救うきっかけになったのはまたしても「外国人」でした。横浜と外国人の歴史の中の縁を感じます。1945年の横浜大空襲で被害を受けた横浜元町商店街でしたが、終戦により占領軍として米軍が横浜に居住し始めたことにより以前の賑わいを取り戻すことができました。
しかし長くは続かず、1952年の朝鮮動乱を機に米軍が接収していた横浜の土地の開放が進むにつれ、外国人という有力顧客を失ってしまった横浜元町商店街は再び厳しい競争の中に巻き込まれます。外国人や世界情勢に散々に影響を受けてきた横浜村の住民、つまり横浜元町商店街の人たちは諦めませんでした。1955年から1985年まで現在の街歩きに適した「歩行者空間」としての街づくりの整備を続けたのです。その成果は現在、横浜元町を一度でも実際に歩けば誰もが体感することでしょう。
1989年横浜博覧会以降の横浜元町商店街
観光都市としての横浜の街並みは、関内周辺を中心とした横浜開港以降の発展と横浜駅周辺の戦後の発展、それらを結びつけるみなとみらい周辺の1989年横浜博覧会以降の発展により計画的に進められてきました。日本への訪日外国人旅行者数も2011年より右肩上がりで2018年には年間3,000万人を超えています。令和元年(2019年)の横浜市の発表でも月間で15万人以上の外国人旅行者が観光を目的として横浜に訪れます。
すでにご紹介した通り、外国人旅行者の横浜観光の目的が「街歩き」だとすれば横浜元町商店街は横浜に住む多くの人が認める場所の一つでしょう。横浜を代表する「街歩き」の観光スポットのひとつとして、横浜元町は三度「外国人」との関わりを通してさらに発展していくような気がします。
まとめ
横浜元町商店街を調べていく中で「外国人」と横浜の縁を感じました。黒船来航も、横浜開港も、横浜大空襲にも外国人が関係していることは誰もが容易に想像できることですが、横浜村の「元」住人によって築き上げられた「町」、横浜元町商店街は世界の情勢や地理的な要因においてさらに外国人との関係性が深い町であることが理解できました。横浜元町の歴史を頭に入れながら商店街を歩くと、他にも異国情緒の発生源が他にも見つかるかもしれません。
【1859年横浜開港以前】
現在の山下公園から中華街の間の土地に横浜村の集落
【1859年横浜開港以降】
横浜村住民が横浜元町に移転し大発展
【1923年関東大震災以降】
震災の影響などで厳しい状況
【1945年横浜大空襲以降】
空襲被害後に進駐軍により一時的に発展
【1989年横浜博覧会以降】
「歩行者空間」整備により街歩きの魅力
参考文献
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志