受け取った賠償金をアメリカは返還してくれたんだって?
返還してくれたお蔭で大さん橋が完成して横浜発展の起点になったみたいだよ
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「途次大志の備忘録」の執筆者でハンバーガーが大好きな途次大志(toji-taishi)です。
大さん橋と象の鼻の歴史を調べていくとアメリカと横浜の長い関係に気付きます。
「本当にアメリカと戦争をしていたの?」という若者も増えてきているようです。
戦争を経験していないアラフィフの私も知識としてしか理解していないので、アメリカとの戦争を容易に信じられない若者の存在は当然なのかもしれません。
- 象の鼻は冬の横浜の北風対策
- 下関戦争の賠償金返還で大さん橋建設
- ペリーから始まるアメリカと横浜の関係
大さん橋と象の鼻の知っておきたい歴史
大さん橋から横浜港越しに眺める赤レンガ倉庫やみなとみらいの風景は、横浜を代表する景観としてテレビでもたびたび見かけます。
象の鼻パークは開港150年を記念して2009年に整備され、パーク内には大桟橋と象の鼻の歴史が写真を使って丁寧に説明されています。
そんな大さん橋や象の鼻の歴史を知っているともっと横浜観光が楽しめそうです。
象の鼻はなぜ曲がっているのか?
大さん橋の根本に広がる象の鼻パークは広々とした空間から横浜港を見渡せます。
横浜が開港した1859年頃に長さ109メートルの2つの桟橋が造られ、海に向かって右側の桟橋が8年後の1867年に象の鼻のように曲がり、35年後の1894年に初代の大さん橋である長さ450メートルの鉄桟橋が登場しました。
なぜ開港から8年後に、もともと直線状だった桟橋を象の鼻のように曲げる必要があったのでしょう。
もともと109メートルの桟橋では大型貿易船は接岸できず、その頃に活躍したのが艀(はしけ)と呼ばれる小舟です。
沖合で大型貿易船から艀(はしけ)と呼ばれる小舟に荷物を移し替えた後、海岸に近づき陸揚げを行っていました。
冬の横浜では北風が吹き湾内が荒波になります。
荒波が落ち着くまで小舟の艀(はしけ)は荷物の陸揚げを待たなければならず、海外の貿易業者からも常に苦情の種でした。
そこで開港から8年後の1867年に桟橋を象の鼻のように曲げることにより荒波を抑え陸揚げがやりやすいように造り変えられたのです。
大さん橋建設はアメリカのお蔭!
明治維新後の新政府が財政面で苦しんでいたことはよく知られていますが、そんな中で1894年(明治27年)に鉄製の桟橋として初代の大さん橋が完成します。
現在の価値にして100億円近い築港工事費をどうやって捻出できたのでしょう。
なんと大さん橋の完成からさかのぼること31年前の下関戦争が関係しています。
下関戦争とは1863年に現在の山口県と福岡県の間の関門海峡で起きた長州藩とイギリス、アメリカ、フランス、オランダの武力衝突事件です。
攘夷や開国で揺れる幕末、長州藩は関門海峡を航行する外国船に対し攻撃しましたが、圧倒的な武力差の前に降伏し賠償金を支払うことになりました。
その際の賠償金の算出方法が国際法に照らし合わせて正当ではなかったことを認めたアメリカは賠償金(現在の価値で約50億円)を1883年に明治政府に返還してくれました。
獲得した賠償金を返還するという歴史上の稀有な出来事に作家の司馬遼太郎さんも興味を持たれていたようです。
アメリカ議会で議論を重ねた後に返還された賠償金が大さん橋建設に充当されました。
アメリカの良心により大さん橋が建設され横浜発展の起点となったと言えるかもしれません。
ちなみにアメリカ以外の連合国であるイギリス、フランス、オランダからは賠償金は一切返還されていません。
すでに受け取った賠償金をアメリカの議会内で再検討し、良心に従って返還したアメリカという国の偉大さにただただ驚いてしまいます。
横浜とアメリカの深い縁
アメリカが返還してくれた下関戦争の賠償金を資金に初代の大さん橋が完成し、横浜は貿易港として発展を果たすことができました。
横浜の歴史を調べているとアメリカという国との深い縁、関係性の中で発展してきたことが理解できます。
大さん橋の歴史を「5つの時代区分」でアメリカと横浜を中心に整理してみます。
- 横浜開港(1859年)以前
- 横浜開港(1859年)以降
- 関東大震災(1923年)以降
- 横浜大空襲(1945年)以降
- 横浜博覧会(1989年)以降
横浜開港(1859年)以前の大さん橋
書籍「江戸東京・横浜の地形」では横浜の土地は大きく「台地」「低地」「埋立地」の3つに分けることができるそうです。
象の鼻パークの辺りは「低地」の横浜村の一部で、大さん橋は開港を迎えるまで存在すらしていません。
横浜村にアメリカ軍人であるペリーが来航し1854年に日米和親条約を結び、同じアメリカ軍人のハリスが来航し1858年に日米修好通商条約を結び、日本の玄関としての横浜の発展が始まります。
横浜村から現在の発展した横浜への起点となる時代にアメリカという国の存在がありました。
横浜村の元住人が横浜元町商店街を創ったことや弁天通りが賑わっていたことは以前の記事でもご紹介致しました。
横浜開港(1859年)以降の大さん橋
現在の象の鼻パークの付近に2つの直線状の桟橋が横浜開港時に完成し、開港8年後に象の鼻ができました。
かつての長州藩が起こした下関戦争の賠償金をアメリカが返還してくれたことにより1894年に初代の大さん橋が完成します。
大さん橋の完成により大型の貿易船も接岸できるようになりますます貿易港として横浜が発展していきました。
関内の馬車道はこのころ大変な賑わいでした。
関東大震災(1923年)以降の大さん橋
外国時居留地と日本人町のあった関内周辺を中心として発展してきた横浜に関東大震災が1923年に起こります。
大さん橋の桟橋部分が関東大震災で陥没し、上屋も消失してしまいます。
アメリカからの巨額の義捐金と救援物資を寄贈された歴史上の事実は書籍「横浜の関東大震災」にも記されています。
2011年の東日本大震災同様、関東大震災の発生当時もアメリカは日本に支援してくれたことに改めて感謝せずにはいられません。
横浜大空襲(1945年)以降の大さん橋
黒船来航から大さん橋の建設、関東大震災からの復興支援などアメリカと縁が深い横浜の住民にとって、アメリカを敵国とする太平洋戦争中においても「アメリカ軍は横浜を攻撃しないだろう」という感覚があったと書籍「大空襲5月29日」にも記されています。
それほど横浜市民にとっては親しみのあったアメリカが1945年に焼夷弾による大空襲を横浜に引き起こします。
戦争とは本当に恐ろしいことです。
大さん橋は戦中には日本海軍に接収され、敗戦後はアメリカ軍に接収されました。
終戦から7年後の1952年になってアメリカ軍の接収が解除され、やっと大さん橋は戦争の呪縛からも開放されました。
横浜博覧会(1989年)以降の大さん橋
1989年のみなとみらい地区で行われた横浜博覧会以降に現在の街並みへと発展していく横浜において、現在の7代目となる大さん橋ターミナルが2002年に完成します。
黒船来航で横浜が開港し、賠償金の返還や震災の義捐金を受け、戦争という特殊な環境で占領された大さん橋は、今ではアメリカだけでなく世界の海と繋がっています。
アメリカからやってきたジャズの音楽が秋の横浜に流れ続けることを願うばかりです。
まとめ
1859年の横浜開港と同時に現在の象の鼻パーク付近に長さ109mの直線状の桟橋が誕生しました。
1867年に冬の北風による荒波対策として防波堤の役割をもつ象の鼻のような形をした桟橋が付け加えられました。
その後1894年にアメリカから返還された賠償金をもとに長さ450mの初代の大さん橋が造られました。
アメリカ人の来航により横浜が開港し、下関戦争の賠償金をアメリカが返還してくれたお蔭で貿易港の起点となる港湾設備が完成したのです。
関東大震災の復興に手を差し伸べてくれたアメリカを敵国とする太平洋戦争が起こり、横浜の町は焼夷弾で焼け落ちてしまいます。
終戦から7年後にアメリカ軍の接収が解除された大さん橋は、関内周辺、横浜駅周辺、みなとみらい周辺の賑わいを背景に2002年に現在の7代目のターミナルが完成しました。
アメリカという国との関わりがあったことを強く感じる大さん橋の歴史を調べる旅でした。
参考文献
横浜港の七不思議 ―象の鼻・大桟橋・新港埠頭 (有隣新書65)
横浜の関東大震災
対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形
新版 大空襲5月29日 ―第二次大戦と横浜 (有隣新書19)
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