Sponsored Links

ぴよぴよ

映画「シン・ゴジラ」ではゴジラが形態変化しながら進化していったよね


みかんみかん

横浜馬車道も3段階の形態変化を経て今の姿に進化したみたいだよ

なぜ馬車道だけ?他の道は馬車が通らなかったの?横浜の歴史を調べてみた
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。

「途次大志の備忘録」の執筆者でどちらかと言うとウルトラマン世代の途次大志(toji-taishi)です。

横浜の馬車道はアイスクリーム、近代街路樹、ガス灯など「日本初」の発祥の地としてよく知られています。

馬車道の由来は「馬車が通っていたから」という説明は私にとっては疑問の余地が残ってしまう回答のように感じてしまいます。

現在の馬車道だけでなく本町通りなど他の道にも馬車が通っていたと思わせる明治期の写真が横浜開港資料館の「よこはま歴史画像集」にも収められているからです。

横浜馬車道の3段階の進化
  • 第1形態:新田開発以前の観光道
  • 第2形態:横浜開港以降の物流道
  • 第3形態:横浜大空襲以降の歩行者空間道

横浜馬車道の歴史を調べてみよう

馬車道のベンチ
横浜に限らず、全国のたいていの街で「電車通り」と呼ばれる道にかつて市電が走っていたということはよく耳にします。

ただし馬車は市電と違ってレールがなく、人力車や自動車のように車幅の問題さえクリアすればどんな道でも走れるように思えます。

横浜開港後、車幅をクリアできるいくつかの道を馬車が自由に走っていたのだとしたら、なぜ現在の馬車道だけが「馬車の通っていた道」として呼ばれるようになったのでしょう。

他の道は馬車が通らなかったのか?

「牛馬飲水」馬車道水飲み場歴史遺産
JR関内駅付近の吉田橋から赤レンガ倉庫のある新港埠頭に向かう万国橋までの間の現在の馬車道が、明治期の横浜の他の道に比べて圧倒的に馬車が頻繁に走る歴史的な背景があったのであれば、この道だけを「馬車が通っていた道」として名が残っていることにも納得ができそうです。

ガソリンスタンドが自動車の交通量が多い道路に配置されているように、馬車を引く馬のための給水施設が現在の馬車道に歴史的遺産として残されています。

確かにこの「牛馬飲水」の歴史的遺産は馬車の交通量が多かったことを示すひとつと言えますが、まだ少しだけ圧倒的な馬車の交通量を示すには不十分な気がします。

馬車を利用することのない現代の私たちにとって、どこか馬車を現代の自動車と同じ感覚で捉えてしまいます。

自動車は移動手段つまり「人」を運ぶものと考えてしまいますが、人よりも「貨物」を運ぶことが馬車を利用する主目的だったとしたら馬車道の捉え方が少し変わってきそうです。

馬車道の歴史をひもとくキーワード

関内の弁天通り
横浜開港以降、現在の馬車道が他の道に比べ頻繁に「馬車による貨物輸送の道」として利用されるまでの歴史的な背景には3つのキーワードがあります。

馬車道の歴史を知る3つのキーワード
  1. 弁天社
  2. 桟橋(万国橋付近)
  3. 吉田橋

この3つのキーワードを知ると馬車道の横浜の歴史が理解できます。

三段階の進化を遂げた馬車道

現在の馬車道
映画「シン・ゴジラ」ではゴジラの形態が進化していく様子が描かれています。

馬車道も横浜の歴史の中で進化し、現在の馬車道は「第3形態」と呼べるのではないかと私は考えています。

馬車道は関内駅から少し桜木町駅寄りの「吉田橋」から「万国橋」へと続く道で、馬車道商店街沿いは歴史的な建物や街並みを眺めながらゆったりと歩くことができる観光客にも人気のスポットです。

歩き疲れたらベンチでひと休みできるのも歩行者にとっては嬉しい点です。

そんな横浜馬車道の「第3形態」への歴史上の進化の過程で「弁天社」「桟橋(万国橋付近)」「吉田橋」というキーワードが登場します。

「5つの時代区分」による横浜馬車道の歴史

4つの出来事と5つの時代区分YRK10
馬車道の歴史を理解する整理棚として横浜の歴史上の「4つの出来事」を境とした「5つの時代区分」で考えていきます。

横浜の歴史の「5つの時代区分」
  1. 横浜開港(1859年)以前
  2. 横浜開港(1859年)以降
  3. 関東大震災(1923年)以降
  4. 横浜大空襲(1945年)以降
  5. 横浜博覧会(1989年)以降

横浜開港(1859年)以前の馬車道

新田開発以前の馬車道
馬車道が現在の姿になるまでの歴史を知るために、まず横浜が開港される1859年以前の横浜の地形を眺めましょう。

書籍「港町の近代」をもとに現在の関内周辺を略地図にしてみました。

吉田新田や太田屋新田などの新田が開発される前は現在の関内駅も桜木町駅も海の中でした。

現在の馬車道を関内駅付近から海岸へ北東方向に歩いていくと「弁天通り」と交わります。

神奈川県立歴史博物館の辺りに鎌倉時代以降の幕府(鎌倉、室町、江戸)によって保護された「弁天社」という社(やしろ)があり、江戸時代には風光明媚な場所として有名な観光地としても栄えていたようです。

旧東海道沿いの神奈川宿からの観光客は、現在の万国橋辺りの「桟橋」を利用し「弁天社」を目指しました。

「桟橋」から「弁天社」に向かう道が馬車道の「第1形態」として観光目的で利用され始めたのです。

またこの「第1形態」の馬車道は野毛村から神奈川宿へ貨物を運ぶ道としても利用されるようになります。

現在の「弁天通り」に訪れたら

「弁天通り」の高さを他の並行する道の高さと比べてみて下さい。
「弁天通り」の道の高さが他の道より高いことに気づくでしょう。
昔の人は砂地の横浜村の土地の中で「弁天社」の前面に伸びた少しでも高いところを道として利用していた跡が、現在の「弁天通り」として残っているということかもしれません。

横浜開港(1859年)以降の馬車道

横浜開港以降の馬車道
現在のJR関内駅の南西方向に広がる吉田新田も江戸時代中期にはすでに完成し、北東方向の太田屋新田も横浜開港直前には完成しました。

馬車道の「第2形態」のキーワードはJR関内駅近くの「吉田橋」です。

横浜が開港した1859年には吉田橋が造られ、同時に関所が置かれ「関内」と「関外」という区域が登場しました。

旧東海道の陸地から関内に貨物を運び入れるには吉田橋が重要な役割を果たし、吉田橋と以前から利用されてきた桟橋を結ぶ「第2形態」の馬車道が1868年に開通します。

「第1形態」の馬車道の道幅が3間(約5メートル)に対し、「第2形態」では貨物を運ぶ馬車が行き交うことができるよう道幅60フィート(約18メートル)に拡張されました。

1859年に造られた木造の初代の吉田橋では「貨物」を運搬する馬車の重さに耐えられないため、1869年に金属製の頑丈な二代目となる吉田橋が建設されました。

当時の吉田橋を通過するには通行料が必要で、現在の万国橋付近にあった桟橋までの馬車道は「貨物」を流通させるための物流道路の役割を果たしていたのでしょう。

現在の吉田橋は無料で好きなだけ自由に渡れることができますが、当時は通行料だけでなく建設に莫大な費用がかかったこともあり金属製という以外の意味を込めて「カネの橋」と呼ばれていたそうです。

関東大震災(1923年)以降の馬車道

神奈川県歴史博物館
貨物を積載した馬車が通行できる金属製の頑丈な吉田橋が1869年に完成し、1868年に吉田橋と桟橋の間を開通していた馬車道に更に物流が行き交い始めたことでしょう。

観光名所であった「弁天社」は移転し、物流が流通し経済活動の中心地となった馬車道沿いには「正金銀行」が建ち、「弁天通り」には旅籠屋などの宿泊施設が建ち並んでいきました。

馬車道と弁天通りを中心に商人の街「日本人町」が形作られていきました。

現在の神奈川県立歴史博物館がかつての「正金銀行」で1923年の関東大震災を乗り越えた建物として今も見ることができます。

横浜大空襲(1945年)以降の馬車道

馬車道ベンチと車止め
1945年に馬車道も横浜大空襲の被害を受けます。

終戦後、関内地域の多くの土地が占領軍である米軍により接収されたことにより、横浜でもっとも栄えていた馬車道を中心とした関内地区に代わり現在の横浜駅周辺が発展し始めます。

馬車道商店街も「関内商店街」と名称を変更するなど苦しい時期もあったようです。

1960年代の横浜市との取り組みにより現在の我々が目にしている「第3形態」の現在の馬車道の姿に変わっていきました。

馬車道商店街として「歩行者空間」を意識した街並みが造られていきました。

具体的には書籍「田村明の闘い」に描かれていますが、車道から店舗を1.5メートル遠ざけて歩道を拡張し、車道と歩道の間のガードレールを円柱状の車止めに置き換え、歩行者が気軽に利用できるベンチを設置しました。


横浜博覧会(1989年)以降の馬車道

元町商店街と馬車道商店街観光地でもあった「弁天社」から桟橋へと続く「第1形態」の道ができ、馬車が通行可能な吉田橋と桟橋を結び商人が集まる日本人町の物流道路として「第2形態」の馬車道が栄えました。

1960年代に「第3形態」へと進化した馬車道は馬車道商店街を中心に横浜の観光スポットのひとつとなりました。

現在、馬車道商店街のイベントといえば「馬車道まつり」が横浜市民の多くに親しまれています。

馬車道商店街同様に横浜開港以降に開業した「元町商店街」のイベント「チャーミングセール」と「馬車道まつり」を比べると奇妙な逆転現象を感じます。

もともと横浜村の「村民」が移転し現在の横浜元町に開業した元町商店街が「チャーミングセール」という商い色の強いイベントを催しているのに対し、物流の中心地に集まった「商人」が開業した馬車道商店街では「馬車道まつり」という住民色の強いイベントが開催されています。

もともと村民だったからこそ商い色を意識し、もともと商人だったからこそ住民色を意識しているようで、いずれにしろ「元町商店街」にも「馬車道商店街」にも意識的に横浜の街を盛り上げようという心意気に気づくのは私だけではないでしょう。

Sponsored Links

まとめ

馬車道街並み
現在の万国橋付近の「桟橋」から「弁天社」への観光の道が、「吉田橋」まで繋がり馬車による貨物輸送のための物流の道へと進化していきました。

馬車の車幅に合わせた道幅の拡張と馬車の重量に耐える金属製の頑丈な吉田橋建設の歴史を知ると、現在の馬車道が単に「馬車が通っていた道」というだけではなく貨物輸送の中心的な役割として「馬車を通すための道」として築き上げられた道であることが理解できました。

貨物輸送の中心が馬車ではなくなってしまった現在の馬車道は「歩行者空間」として再び観光客を楽しませてくれています。

馬車道の名前の由来を知ろうとする中で、映画「シン・ゴジラ」のごとく馬車道が「第1形態」から「第3形態」へと横浜の歴史を背景にして変化する様子が理解できました。

そう言えば1992年に公開された映画「ゴジラvsモスラ」では横浜の「4つの出来事」のひとつ1989年の横浜大博覧会の会場跡地での闘いが描かれています。

馬車道の進化と同様に横浜の歴史はゴジラの歴史と浅からぬ縁があるのかもしれません。

関内駅付近の吉田橋から海岸へと続く馬車道を歴史を思い浮かべながら歩いてみると、橋や建物の他にも行き交う通りの名前や街並みにさらに親しみをもって楽しめるのではないでしょうか。

参考文献

横浜開港資料館公式サイト「よこはま歴史画像集」
シン・ゴジラ映画「シン・ゴジラ」
ゴジラvsモスラ [DVD]映画「ゴジラvsモスラ」
港町の近代―門司・小樽・横浜・函館を読む港町の近代
都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして田村明の闘い

最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。
これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。
今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。

途次大志

Title toji-taishi-no-bibouroku
途次大志のプロフィール紹介

Sponsored Links