歴史を知らないと観光スポットもいまいち楽しめないね
歴史上の人物を身近に感じると観光スポットも楽しめるよ
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「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。
ペリーが1853年に黒船で来航した歴史上の出来事はよく知られています。当時の日本の混乱ぶりは容易に想像ができたとしても、やって来たペリー側の事情を知る人はさほど多くはないでしょう。アメリカ海軍の組織の一員として交渉に臨むペリー側の事情を知ると、国籍は違えども同じ人間として身近な存在として共感を覚え、さらに歴史に興味が持てるような気がします。
「ウソも方便」とは言うものの、きっと今も昔も、ウソは好ましいものではないのでしょうが、交渉においてペリーは「4つのウソ」を横浜(浦賀)でつきました。
圧倒的な軍事力を見せつけるペリー側がなぜウソをつく必要があったのか?
その詳細は文末の参考文献で紹介する著書「幕末外交と開国」に譲り、ここではペリーのついた「4つのウソ」をご紹介します。
最新の軍艦が100隻
川柳「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」と表現されている通り、黒船の登場がさぞかし日本国内を混乱に陥れたのでしょう。
1853年のペリーの初来航でやって来た軍艦のうち「サスケハナ号」と「ミシシッピー号」は、確かに当時の世界最大で最先端だったようで、日本が混乱するのもある意味、当然です。
ペリーは「こんな凄い最新軍艦が日本の近くに50隻、さらに西海岸には50隻、合わせてアメリカ軍には100隻もあるんだぜ」と口にします。
これがひとつ目のウソです。
喧嘩の時の「かまし」ってやつでしょうか。
実際にはこの手の最新の軍艦は、アメリカ国中を探しても「たった5隻」しかありません。関西人と会話をする時は「話、半分」と言われますが、これはかなりヒドい盛り方ですね。
アメリカから18日間
続いて、ペリーはウソを重ねます。
「アメリカから太平洋を超えて日本まで18日間でやって来れるんだぜ」
いかにも18日間で日本にやって来たかのように口にしていますが、ペリーがアメリカ(東海岸)を出港したのが1852年11月24日で、初めて江戸湾に現れたのが翌年1853年7月8日です。つまり足掛け約8ヶ月も掛かって日本にようやくたどり着いています。
そもそも、まだこの当時はアメリカ西海岸とアジアを結ぶ太平洋航路が確立されておらず、アメリカ東海岸からアフリカ、インド、アジアを超える大西洋航路がやっと確立されている程度でした。
ペリーはあくまで実践の伴わない机上の空論の太平洋航路の18日間を口にしたのです。
ひとつ目のウソと合わせると、最新軍艦100隻がアメリカから18日間で日本にやって来るということになります。
私すごく偉い人なのですよ
さらにペリーのウソは続きます。
「なんせ私、東インドだけじゃなく中国と日本方面の艦隊司令長官なんだぜ」
はい、ウソ。
彼のタイトルはただの「東インド艦隊司令長官」です。
中国と日本を追加しちゃいました。
サラリーマンの「部長代理」「課長代理」は許されますが、課長が部長を名乗ってはいけませんね。経歴詐称はよくありません。
でも、気持ちはわからなくはないですよね。
女性のいる飲み会の場で、ちょっと見栄を張ってみたくなる男性の気持ち。
今も昔も人間は同じなんだろうなと思えてきます。
オス鳥がメス鳥の前で、大きく羽を広げたくなるというのかな。
生物的な本能から来ていると思えば可愛いものですが、残念ながらウソはウソですね。
従わないと大砲で攻撃
5隻しかない最新軍艦を100隻と言い、18日で日本へやって来れると言い、東インドだけでなく中国と日本も含む艦隊司令長官だと口にするペリーさん。
歴史上の人物としてペリーと呼び捨てにするには、少し愛着が湧いてきたので「ペリーさん」と呼ぶことにしましょうか。
4つ目のウソはなんともペリーさんにとっては可愛そうなウソです。
「事と次第によっては最新軍艦から大砲をぶっ放して戦争ってことにもなるかもしれないぜ」
「軍事的圧力」「砲艦外交」のアメリカのペリー艦隊にとって、これはウソじゃないでしょ?と思いたくなりますが、残念ながらウソなんです。
アメリカ海軍の組織の歯車のひとつに過ぎないペリーさんには戦争開始の権限はなく発砲厳禁で交渉に臨まなければならなかったです。
可愛そうなペリーさん。
サラリーマンで言うなら、部下を育てるように上司から命令はされてはいるけれど、部下の昇給等の人事と予算の権限を与えられていない状態に近いのでしょうか。
部下に疎ましく思われようともムチを使って指導する一方で、アメを持たされていない状態というのでしょうか。
「威圧外交」の最大の武器である大砲による攻撃を禁止されている状態で、アメリカにとって望ましい成果を持ち帰らなければならないペリーさん。
時代は違えども、ペリーさんも人の子、組織の子だったのでしょうね。
ウソは好ましいものではないけれど、とりあえずペリーさんに言ってあげたくなりますね、「お疲れさん」と。
まとめ
- 横浜開港(1859年)以前
- 横浜開港(1859年)以降
- 関東大震災(1923年)以降
- 横浜大空襲(1945年)以降
- 横浜博覧会(1989年)以降
ペリーさんが最初にやって来て、国書を無事に日本側に手渡したのは横浜と同じ神奈川県の浦賀という街です。
横浜の街並みの歴史をざっくりと理解しておきたいなら、横浜開港(1859年)、関東大震災(1923年)、横浜大空襲(1945年)、横浜博覧会(1989年)の4つの歴史的な出来事を頭に入れていると整理しやすくなるでしょう。
今回は横浜開港(1859年)以前の1853年に初めてペリーが横浜(浦賀)に来航した歴史の一片を探ってみました。
圧倒的な軍事力を示す黒船艦隊を率いながら、ペリーさんがウソを重ねなければならなかった日本とアメリカ双方の時代背景は、文末の参考文献で紹介している著書「幕末外交と開国」に詳しく書かれています。
歴史上の人物の詳細を知ることで「同じ人間なんだ」と身近に感じられ、ウソをついてまで交渉に臨んだ「ペリーさん」が実際にこの横浜(浦賀)の地に降り立ったのかと想像すると、見えてくる景色も少し変わってくるような気がしてきますね。
参考文献
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