横浜の歴史をざっくり知っていると観光も楽しめそうだね
関東大震災をくぐり抜けた建物を関内・馬車道に訪ねよう
こんな人にオススメ
- 横浜観光をもっと楽しみたい人
- 関内・馬車道に縁のある人
- 横浜の歴史をざっくり知りたい人
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者で関内で焼き鳥を食べたい途次大志(toji-taishi)です。
横浜の歴史をざっくりと知ることで観光がさらに楽しくなるでしょう。
1989年の開港以来、発展を遂げてきた横浜が1923年の関東大震災で大きな打撃を受けたことはよく知られています。
「横浜開港〜関東大震災」の時代区分の横浜の町の様子はどんな姿だったのでしょう。
関東大震災後も残った建物を今でも見ることができるのでしょうか。
- 「横浜開港〜関東大震災」の時代区分
- 関東大震災の横浜中枢部の被害
- 現在も当時の外観を残す建物
横浜の歴史的災害・関東大震災
横浜の歴史をざっくりと知るために「4つの出来事」と「5つの時代区分」で考えるとわかりやすいです。
横浜での「4つの出来事」とは横浜開港(1959年)、関東大震災(1923年)、横浜大空襲(1945年)、横浜博覧会(1989年)です。
これら「4つの出来事」を境に未開だった「横浜開港以前」から5つの時代区分を経て今の横浜へと姿を変えていったのです。
今回は時代区分の2つめ「横浜開港〜関東大震災」の横浜の町並みを見ていきます。
開港直前の横浜は春に近づけばツバキの花が咲き誇り緑の田畑が広がり、黒船で知られるペリーに「東洋諸国の中では最も道徳的で洗練された」と感じさせる人々が暮らしていました。
未開の横浜から「横浜開港以降」に大きな発展を遂げ、町並みも様変わりしていきました。
横浜の災害の歴史
開港以降、生糸輸出を独占する貿易港として急激な発展を遂げた横浜は歴史的な大地震に見舞われました。
1923年(大正12年)9月1日土曜日。
その日は早朝6時の一時的な激しい風雨も収まり午前9時には快晴へと好天し、正午になる直前、人口40万人を超える横浜に関東大震災が襲いかかりました。
実は1854年の日米和親条約の締結の頃から1859年に横浜が開港するまでの「横浜開港以前」の時代区分の後半は「大地動乱の時代」と呼ばれるほど地震が頻発していました。
1853年(嘉永6年)小田原地震
1854年(嘉永7年)日米和親条約の締結
1854年(嘉永7年)東海地震
1854年(嘉永7年)南海地震
1855年(安政2年)安政江戸地震
1859年(安政6年)横浜開港
1923年(大正12年)関東大震災
当時の江戸幕府が元号を嘉永から安政へ改めたほど頻発していた地震災害について、横浜開港から60年以上が過ぎた1923年の「横浜開港〜関東大震災」の時代区分を生きていた横浜の人たちの記憶に残っていたでしょう。
「関内西北部」が横浜の中枢
「横浜開港〜関東大震災」の横浜では現在の日本大通りと横浜公園の西北の地域が貿易、金融、行政の中枢として栄えていました。
「関内西北部」と呼ばれたこの地域は「日本人町」として使用されていたのに対し、日本大通りと横浜公園の南東側、現在の山下町は外国人居留地として使用されていました。
「関内西北部」から大岡川を超えた場所に1915年に横浜駅から改称された桜木町駅がありました。
桜木町駅から橋を渡り、海岸線に並行した通りとそれらと交わる日本大通りと馬車道によって「横浜開港以降」の時代区分での街づくりが進められていきました。
関東大震災前の1910年頃から鉄筋構造の鉄筋コンクリート建築が登場してきたとはいえ、「関内西北部」にはまだまだ多くの木造建築家屋が密集していました。
南風による火災拡大
関東大震災発生直後、「関内西北部」では特に堅牢な建物以外はほとんどが倒壊または半壊しました。
約20ヶ所から火災が発生し、南からの風で延焼被害が拡大しました。
もともと道幅も狭く、家屋の倒壊で塞がれることもあり多くの焼死者を出しながらも、幸い破壊を免れた橋を使って避難しました。
唯一の広い場所であった横浜公園にも6万人の避難民が押し寄せました。
関内・馬車道に残る大地震をくぐり抜けた建物
1923年の関東大震災の大地震による倒壊、半壊に加え火災により多くの建物が焼失しました。
当時の神奈川県庁や横浜市役所は倒壊を免れたものの骨組みだけが残り、以降に耐久性の観点で改築され今では関東大震災以前の姿を見ることができません。
これほどの被害をもたらした関東大震災をくぐり抜けた建物が現存しているのでしょうか。
関内・馬車道で今でも当時の面影を残した建物を見ることができます。
開港記念横浜会館
現在は横浜市民に「ジャック」の愛称で知られるレンガ造りの横浜市開港記念会館は、関東大震災から遡ること6年前の1917年に「開港記念横浜会館」として開館した建物です。
1923年の関東大震災で一部を残して倒壊しましたが、約60年後の1989年(平成元年)に復元され大震災前の姿を今に残しています。
【現在名称】横浜市開港記念会館
【住所】横浜市中区南本町1-1-6
【最寄り駅】みなとみらい線・日本大通り駅
横浜正金銀行
現在、神奈川県立歴史博物館として知られる石造三階建ての建物は1904年に完成した横浜正金銀行の建物で、1923年の関東大震災から約100年後の今も重厚な姿で残っています。
大地震の揺れには耐えたものの付近の木造建築の火災により大火流が舞い上がり石造り部分以外のガラス類や鉄類で造られた一部は被害を受けました。
石造りの建物と天井部に設えられた象徴的なドームの骨組みを残して耐え抜きました。
【現在名称】神奈川県立歴史博物館
【住所】横浜市中区南仲通5-5-60
【最寄り駅】みなとみらい線・馬車道駅
川崎銀行横浜支店
1923年の関東大震災の地震の揺れにも耐え、火災にも耐えた川崎銀行横浜支店の外観を馬車道で見ることが出来ます。
旧川崎銀行横浜支店の建物は関東大震災の前年、1922年に3階建ての鉄筋構造のレンガと石造りで建造され、外壁の窓には二重の鉄製扉を設けた堅牢な建物でした。
1989年に地上9階建てのビルに改築されましたが、関東大震災を耐え抜いた石造りの外観が日本興亜馬車道ビルの3階部分まで残されています。
【現在名称】日本興亜馬車道ビル
【住所】横浜市中区弁天通5-70
【最寄り駅】みなとみらい線・馬車道駅
まとめ
「横浜開港〜関東大震災」の時代区分に発展を遂げた横浜の様子と関東大震災(1923年)の被害状況と現在でも見ることができる建造物について調べてみました。
寺田寅彦の「震災は忘れた頃にやってくる」の言葉通り、「大地動乱の時代」と呼ばれた「横浜開港以前」に続いた大地震の記憶を約60年後の1923年の横浜の人が記憶に留めておくことは容易なことではなかったでしょう。
関東大震災前の姿を現在に留めてくれている関内・馬車道の建造物は、約100年が過ぎた今の私たちに歴史的な大災害の記憶を思い出させてくれようとしているのかもしれません。
そんな記憶を留めながら観光に出掛けてみませんか。
参考文献
横浜の関東大震災
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志