横浜は音楽イベントが盛り上がるイメージがあるよね
横浜の人たちに音楽が染み込んでいるせいなのかもね
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。
横浜で20年以上も暮らしていると、休日に関内辺りを散策していると街角から音楽が流れるイベントに出くわすことがあります。いつもの見慣れた風景に音楽が重なると華やいだ気分にさせてくれるものです。
横浜で音楽が愛されている理由に歴史的な背景が関係しているのだろうか?
この疑問に答えてくれそうな手段のひとつが書籍「黒船来航と音楽」です。私のような音楽のセンスを持たない者でも、横浜と音楽の歴史的な関係を知ると街角で耳にするジャズがさらに味わい深いものになりました。
- 海外の音楽と日本の歴史との接点がわかる!
- 横浜と音楽の歴史がザックリわかる!
- 横浜での音楽イベントがさらに楽しくなる!
横浜と海外の音楽が接するまでの歴史
音楽が横浜に根付いた歴史的な背景を追う前に、そもそも海外の音楽がどのように日本の歴史へ流入してきたのか?という点について、まずは整理しておきましょう。文末の参考文献でご紹介している書籍「黒船来航と音楽」によると、海外からの音楽がもたらせた主なタイミングは三度あるようです。
戦国キリシタン時代に南欧州から
日本が初めて西洋音楽と接触したのは戦国時代後期から江戸時代初期のようで、キリシタン時代と呼ばれている頃です。海を渡って鉄砲だけでなく、音楽も日本に伝来したということですね。主にルネサンス時代後期からバロック時代初期のカトリック圏の音楽だったようです。
そう言えば、以前に読んだ書籍「西洋音楽史」にも音楽と教会の密接な関係が描かれていました。西洋の宗教が日本に流入し始めると同時に、西洋の音楽も日本にやってきたことは容易に想像できます。
歴史ものの映画やテレビドラマで、西洋の羽織をまとった織田信長が洒落た形のガラスの器でぶどう色の飲み物を口にするシーンはよく観ますが、音楽を聴いている姿は観たことはありません。それでも、もしかしたらルネサンスの音楽を織田信長も耳にしていたのかな?と想像すると楽しくなります。
鎖国時代にオランダとロシアから
戦国時代後期から江戸時代初期が海外の音楽が日本に流入した第一波とすれば、第二波は鎖国をしていた江戸時代中期から後期となるようです。鎖国していたとはいえ長崎の出島など限られた場所からは海外の文化が入り、オランダ語で書かれた学問「蘭学」とともに音楽も日本に入ってきていたようです。
この時期はオランダから長崎の出島を通じての西洋の音楽の流入だけでなく、ロシアから帰還した日本の漂流民からもロシア歌謡がもたらされたようです。
そう言えば、司馬遼太郎氏の書籍「菜の花の沖」で描かれている高田屋嘉兵衛もロシアからの帰還した人物なので、ロシア歌謡を日本に伝えた一人なのかもしれません。
海外の音楽が流入した第二波が日本の鎖国時代というのは少々奇妙な感じも受けますが、それほどに海外の造船技術と船舶技術が発展をしていたということなのでしょう。
黒船来航時にアメリカから
海外音楽の流入の第一波が戦国キリシタン時代、第二波が鎖国時代、それぞれユーラシア大陸の音楽であったのに対し第三波はアメリカの音楽でした。
黒船来航を機に日本にもたらされた洋楽の文化が、現在まで続いていると言われています。
「あ!それで横浜はアメリカのジャズが人気なのか!」と考えるのは先走りのようです。そもそもジャズ自体は早くとも19世紀の後半にアメリカで生まれた音楽と言われており、黒船が横浜に来航したのは1854年なので少し時期が合致しません。
黒船来航時にアメリカからもたらされた音楽は、ヨーロッパの宗教音楽や独立戦争以前からのアメリカの音楽だったようです。
第一波、第二波、第三波の歴史を経て、海外の音楽が日本に流入し、第三波としてアメリカからもたらされた洋楽文化が今の日本の音楽の基礎となっているようです。
音楽が横浜に根付いた歴史的な背景
黒船の来航で海外音楽の第三波が横浜へと到達し、その第三波の様子を書籍「黒船来航と音楽」では描かれています。もっとも現代のように映像ですべてが残る時代でもなく、書籍で繰り返し言及されている通り「不明な点は多い」ものの、第三波の海外の音楽が横浜にどのように現れて横浜の人たちと接したのかを想像させてくれます。
音楽とともに上陸したペリー
映画や歴史ドラマ等で「ペリー上陸」のワンシーンを観たことがある人も多いでしょう。たとえば映画「サムライマラソン」の冒頭でもペリー上陸のシーンが描かれています。書籍「黒船来航と音楽」によると、ペリーが上陸する際にはドラムの連打が鳴り響き、音楽隊による「星条旗」が演奏されていたようです。ちなみに映画「サムライマラソン」のペリー上陸のシーンでドラム音がしっかりと流れています。
以前の本ブログ「途次大志の備忘録」でもご紹介したとおり、黒船の登場に圧倒されていた日本側の一方で、ペリー率いるアメリカ側もいろいろな事情を抱えていたことを知りました。
交渉人であるペリーは横浜への上陸においても周到な準備をしていたようです。ペリー上陸の前の午前11時半に、まずは兵隊とともに音楽隊である軍楽隊します。音楽隊が音合わせ、つまり調楽を済ませ、準備を整えてから、軍艦からの礼砲を高らかに打ち上げた後、ドラムロールとともに「星条旗」の音楽が流れる中をペリーがいよいよ上陸します。
見事なペリーの演出ですね。このペリーの登場音楽は待ち構える日本側の役人たちにも好評だったようで、手足でリズムを取らずにいるのを我慢するのが大変だったようです。
黒船来航時に持ち込まれた楽器
ペリーは横浜の上陸の前年にすでに神奈川県の久里浜に初上陸を済ませていますが、その際には大小2種類のラッパ、つまり金管楽器2種類でした。
初上陸時はほんの挨拶だったとしたら、二回目となる横浜への上陸はいよいよ交渉に向けての気合の入る場面だったのでしょう。持ち込まれた楽器は金管楽器だけでも9種類でした。金管楽器に加え、打楽器が3種類、木管楽器が3種類という力の入れようでした。それらの楽器の中には海外でもまだ珍しい楽器も含まれていました。
交渉人であり、演出家でもあるペリーは今回の横浜の上陸では、さらに気合が入っていたことがわかります。日米の親睦を高めるための交歓会でも、日本の人たちにとって初めて見る海外の楽器を使った演奏が行われました。
打楽器
- 大太鼓
- 小太鼓
- シンバル
木管楽器
- ファイフ
- クラリネット
- フルート(?)
金管楽器
- 無弁ビューグル
- ピストン付きコルネット
- ヴェンティル・トランペット
- スライド・トランペット
- トロンボーン
- ナチュラル・ホルン
- オフィクレイド★
- クラヴィコール★
- バリトン・ホルン(?)★
★:当時最新楽器、(?):詳細不明
元町の住民も耳にした音楽
現在のように密閉性の高い音響施設が存在する時代でもなく、日米交歓会などの公式行事の会場からは海外の音楽が横浜の住民の耳に漏れ聞こえていたことでしょう。ただこうした新しい海外の音楽と横浜の住民との間接的な接点だけでなく、目の前で演奏される音楽を横浜の住民が目にし、耳にする機会がありました。
ペリーとともに日本までの旅をする途中に亡くなったアメリカ兵の遺体を、現在の横浜元町の元町プラザ付近にあった増徳院の墓地に埋葬することになりました。その際、現在の元町の谷戸坂下から音楽隊が「葬送行進曲」を演奏する中で棺が運ばれました。現在の谷戸坂下から元町プラザのわずか数百メートルの音楽隊を伴う行進でしたが、沿道には横浜の住民が迎えたという記録があります。
この行進の観覧は横浜の住民にとって海外の音楽との直接的な接点となりました。しかもペリーが交渉成立のために、当時、海外でも目新しかった楽器を携えての横浜上陸であったことを考えると、横浜の人たちにとっては印象的な出来事となったことでしょう。
まとめ
黒船来航で劇的に日本の文化が変わったという印象がありますが、音楽については幕末を迎えるまでに、すでに第一波と第二波の海外音楽の流入がありました。第三波となる横浜にアメリカの音楽が流入した時には、すでに海外の音楽の素地が日本の人たちに形成されていたということかもしれません。
横浜への上陸に向けてペリーは持ち込む楽器においても、用意周到に準備し、上陸時の演出もしっかりと考えていました。様々な楽器を使ったアメリカの軍隊の生演奏は、日本の役人だけでなく横浜の住民の興味関心をも大いにかき立てたであろうことは容易に想像できます。
横浜の住民にとって第三波の海外音楽の経験が、その後のジャズだけでなく「音楽を愛する心」の土台につながっていると考えることもできそうです。横浜の街角で音楽が耳にしたら、こんな横浜と音楽の歴史を思い出してみると、味わいもさらに深くなりませんか。
参考文献
書籍「黒船来航と音楽」笠原潔著
書籍「西洋音楽史」岡田暁生著
書籍「菜の花の沖」司馬遼太郎著
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志