みなとみらいで働いているならちょっとした豆知識を知っておきたいね
「六大事業」「汽車道」「ドックヤードガーデン」についてはいかがかな。
こんな人にオススメ
- みなとみらいで働いている人
- お客様を食事に招待する人
- みなとみらいの歴史をざっくり知りたい人
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者で昔の海岸線の位置を歩いてみたい途次大志(toji-taishi)です。
仕事上のお客様と食事をする際にはちょっとした「小ネタ」を持ち合わせていると助かります。
私も海外の人や国内からのお客様をちょっとした観光にお連れする際には現地の歴史などを事前に下調べをします。
横浜みなとみらいで働く人ならオフィス近くのちょっとした情報を知っておくのといざという時に役立ちでしょう。
話題提供に使える横浜みなとみらいの歴史にまつわる豆知識とざっくりとした歴史の流れについてご紹介します。
- 横浜市の「六大事業」
- 横浜博覧会で汽車道に鉄道運行
- 埋められた「第2ドック」
横浜みなとみらいの歴史の豆知識
せっかく縁があって横浜みなとみらいに訪れたお客様に気の利いた話題提供ができれば仕事がうまく進みそうです。
無口であまり話してくれないお客様やもともと歴史好きなお客様もいらっしゃるでしょう。
まずは横浜みなとみらい、汽車道、ドックヤードガーデンにまつわる豆知識を3つご案内します。
横浜市の六大事業で生まれたみなとみらい
横浜市の「六大事業」をご存知でしょうか。
もともと横浜で育った人なら知っている人も多いでしょうが、横浜以外で育った人ならご存知でない人もおられるのではないでしょうか。
私も横浜在住20年以上ですが育った場所が横浜以外なので横浜市の「六大事業」について知りませんでした。
ランドマークタワーがそびえ立ち、赤レンガがライトアップされ、横浜駅東口からもアクセスしやすいみなとみらいエリアは1965年に横浜市長を務めていた飛鳥田(あすかた)氏が発表した「六大事業」に端を発します。
ビジネスマンとしては「六大事業」とともに横浜市長だった飛鳥田氏の名前を知っておいて何かと損はなさそうです。
- 都市部強化
- 金沢地先埋立
- 港北ニュータウン建設
- 高速道路網建設
- 高速鉄道(地下鉄)建設
- ベイブリッジ建設
横浜市の「六大事業」ではベイブリッジの建設、地下鉄の建設も含まれ、その一つとして「都心部強化」の一環としてみなとみらいが誕生しました。
横浜開港以前は海だった場所に今のみなとみらいの形に埋め立てられようになるまでには横浜博覧会が開催された1989年まで待たなければなりません。
現在のみなとみらいの姿を知ってしまうと信じにくいことですが、日本の長い歴史を考えるとわずか平成元年に現れた土地に今では多くの人が働き、観光に訪れているということなのです。
もともと歴史好きのお客様がいらっしゃれば日本大通り駅の近くにある「横浜都市発展記念館」にご案内すると良いでしょう。
汽車道に博覧会開催時は鉄道が走っていた
1989年に現在の姿に整備されたみなとみらいを利用して横浜博覧会が開催されました。
横浜博覧会の開催中、汽車道を通り山下公園駅と日本丸駅を結ぶ横浜博覧会臨海線という鉄道が走っていたことをご存知でしょうか。
「汐風號」「浜風號」と名付けられた鉄道が山下公園と日本丸の間を駆け抜けていたのです。
横浜博覧会は「宇宙と子ども」をテーマに1989年3月25日から10月1日の191日間で開催され1,333万人が訪れました。
年間3,000万人以上の現在の横浜の観光客数と考え合わせると来場者1,333万人は少ないように感じてしまいますが、逆にみなとみらいの誕生が現在の観光地としての契機になったとも考えられそうです。
ドックヤードガーデンの第2ドックは一度埋められた
現在もランドマークタワーの足元にあるドックヤードガーデンで見ることができる「第2ドック」は1859年の横浜開港以降に建設されました。
「第2ドック」に関係するざっくりとした歴史については後にご案内します。
横浜開港以降の1897年に完成した「第2ドック」は1923年の関東大震災で被災し、1945年の横浜大空襲では大きな被害は受けなかったものの戦後は米軍に一時接収されるという運命を経てもなお昔の姿を今に残してくれています。
しかし1989年の横浜博覧会の開催に当たって一度埋められたのです。
その後、ドックヤードガーデンとしての利用のために再度掘り起こされて、現在私たちが目にすることができるようになりました。
横浜みなとみらいの歴史を「5つの時代区分」で眺める
仕事や観光で訪れたお客様をおもてなしする際には横浜の歴史くらいは知っておきたいと思いながらも、整理されて頭に入っていないとなかなか話題としてはすぐには使えないものです。
みなとみらいの歴史をざっくりと知っておくには横浜の「4つの出来事」の年号とそれらで区分けされる「5つの時代区分」を頭の中の整理棚としておけば、いざという時でも話題提供の隠し道具として活躍してくます。
- 1859年 横浜開港
- 1923年 関東大震災
- 1945年 横浜大空襲
- 1989年 横浜博覧会
横浜みなとみらいの歴史をざっくりと「4つの出来事」と「5つの時代区分」で眺めてみましょう。
横浜開港以前:海だったみなとみらい
みなとみらいが以前、海だったということはよく知られています。
横浜開港前の海岸線沿いから時代を経てどんな風に埋め立てられていったのかを知ることこそ、みなとみらいの歴史を知ることのように感じます。
「みなとみらい大通り」と「いちょう通り」が交差する「いちょう通り西」の交差点をJR根岸線の線路方面に向かった高速道路の高架下に観光案内板が立てられています。
「西区の埋立ての変遷」が写真と地図を使って説明されています。
横浜開港以前の状態に近いと考えられる横浜開港当初の海岸線の位置とともに時代ごとの埋立ての様子を地図と説明文から理解できます。
日本語の説明文とともに英語表記の説明がなされているので、ランチの時間を利用して海外の人を散歩に連れて行っても喜ばれるでしょう。
私たち夫婦も散歩途中に、この案内板に描かれている昔の海岸線の位置を実際の位置と照らし合わせながら「あ!ここからが昔は海だったんだ!」と楽しんでいます。
横浜開港以降:駅裏だったみなとみらい
1859年の横浜開港以降にみなとみらいの陸側から少しずつ埋め立てられていきました。
ところで「船渠」の読み方をご存知でしょうか。
恥ずかしながら私はすぐには読めませんでした。
「船渠」は「せんきょ」と読み「ドック」のことです。
1888年に創立した横浜船渠会社がドックヤードガーデンで今も見ることができる「第2ドック」や日本丸が停泊している「第1ドック」を建設しました。
桜木町駅からの動く歩道に利用し、幾度となく日本丸と「第1ドック」を眺めておきながら「船渠」という文字の読み方と横浜船渠会社の存在を知らなかった自分に恥ずかしく感じます。
横浜船渠会社が創立して約10年後の1897年に「第2ドック」が完成し、さらに2年後の1899年に「第1ドック」が完成しました。
動く歩道から見える日本丸が停泊する「第1ドック」のすぐ先が海だったということです。
さらに横浜開港以降の横浜でひときわ栄えていた場所は関内地区周辺でした。
栄えている関内地区から見れば現在のみなとみらいは桜木町駅の「駅裏」という感覚の場所だったのです。
関東大震災以降:被災したみなとみらい
1923年9月1日の関東大震災で横浜船渠会社のドックは被災します。
日本郵船などの支援を受けますが1929年の世界恐慌による不況により1935年に横浜船渠会社は三菱重工業と合併しました。
歴史に「もしも」はありませんが、関東大震災と世界恐慌がなければ三菱重工業との合併もなかったのかもしれません。
現在のみなとみらいの姿は三菱グループの三菱地所の開発によるものですが、もしかしたら今とは異なるみなとみらいの姿になっていたのかもしれません。
ちなみに「第2ドック」で使用されている石材は熱海の東に位置する神奈川県の真鶴半島の「小松石」が使われているそうです。
地質学や石材に関心のあるお客様がいらっしゃれば、実際に手で触れることができる「第2ドック」の石材を喜んでもらえるかもしれません。
横浜大空襲:接収されたみなとみらい
1945年5月29日の横浜大空襲で被災率46%の被害を受けました。
すでに効果的な空襲に長けていた米軍は山手地区と同様に占領後の活用に備え港湾設備を有する地域を避けて精密な攻撃を行いました。
ドックが連なるみなとみらいは大きな被害を受けなかったものの戦後しばらくの間は港湾設備の9割は進駐軍に接収されることになります。
みなとみらいが返還された後、1965年に横浜市の「六大事業」が発表され横浜の復興とも思える開発がやっと動き始めました。
1955年以降から続く貨物や旅客を船で運ぶ需要の高まりを受けてみなとみらいを手放したくない三菱重工と新しい開発を行いたい横浜市との間の調整は簡単には進まなかったようです。
しかし経済も移ろいゆくもので1980年代に造船産業の勢いに陰りが見え始め三菱重工のみなとみらいの撤退と三菱地所による跡地開発という方向性が見え始めました。
「みなとみらい」という名称は1981年の「都心臨海部総合整備基本計画」の愛称募集から呼ばれるようになりました。
1965年の「六大事業」発表から18年後の1983年に「みなとみらい21事業」の起工式が行われ現在の姿へ向かうことになったのです。
横浜博覧会:関内と横浜駅を結びつけたみなとみらい
1989年にみなとみらいで横浜博覧会が行われました。
この1989年という年は平成元年というだけでなく、1859年の横浜開港から130年目に当たり、さらに横浜市の市政100周年の記念すべき年に現在の姿の原型となるみなとみらいが誕生したのです。
横浜博覧会後の2年後の1991年に「ヨットの帆」の特徴的な形の「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が開業し、1993年に当時日本一高い超高層ビルとされた「ランドマークタワー」が開業しました。
新港では2002年に「赤レンガパーク」が整備され、グランモールに2013年に「MARK ISヨコハマ」横浜駅東口も開発が進みました。
横浜博覧会以降のみなとみらいの発展により関内周辺と横浜駅周辺を海側で結ぶ「かすがい」の形をした横浜の都市機能が強化されたのです。
まとめ
桜木町駅からの動く歩道から見える日本丸と「第1ドック」の先に海が広がっていたなんて今では信じにくいみなとみらいの街並みが広がっています。
ドックヤードガーデンの「第2ドッグ」では当時の真鶴半島で採掘された「小松石」に触れることができます。
当たり前のように目の前に広がる景色もその歴史を知るとさらに愛着が湧いてくるものです。
街並みに愛着が湧けば日々の仕事のストレスも少しは和らぐのかもしれません。
そんな気分転換も含めてオフィスの周りを散歩してみませんか。
参考文献
「みなとみらいの誕生」
都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして
横浜の空襲と戦災〈3〉公式記録編 (1975年)
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志