「吉田新田」って知ってる?
横浜の人には馴染み深い歴史に関することだよね
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。
全国にはその土地では誰もが知っていることでも、他の土地の人にとっては「知らなかった」ということも多くあるものです。
横浜で生まれ育った人にとっての「吉田新田」もそんな一例なのかもしれません。
20年以上も横浜に暮らしながら大阪で幼少期を過ごした私には「吉田新田」は「知らなかった」ことのひとつでした。
そんな私でも横浜新田を実感する3つの観光スポットをめぐり、関連書籍を一読すれば、もしかしたら「ハマっ子」の一員として認めてもらえるかもしれません。
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- 吉田新田の概略を把握できる!
- 吉田新田に関する書籍がわかる!
- 吉田新田を実感できる3つの観光スポットがわかる!
横浜の発展の歴史は大阪人のお陰!?
横浜は日本で2番目に人口の多い都市で、観光地としても外国人がやってくるほどの人気の街です。
3番目に人口が多い大阪が横浜の発展の歴史に関係していたとしたら。
もしそうだとしたら大阪出身者としては少し嬉しく感じます。
これを機に2番目と3番目の都市である横浜と大阪がより一層「お近づきの間柄」になりたいと感じるのは私だけでしょうか。
横浜では授業で習うらしい
そもそも「吉田新田」について横浜で小学校を過ごした人は授業で習うらしいのです。
もっとも私のように授業をろくすっぽ聞かずに友達との遊びに夢中だった「ハマっ子」の中には知らなかった人もいるのかもしれませんが。
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- 江戸時代初期まで横浜の伊勢佐木町付近は海だった
- 農民たちと力を合わせて難工事の末に勘兵衛が埋め立て始めた
- 1667年に完成し明治時代には関外として横浜の発展の礎になった
江戸時代の初めの頃まで京急線の日の出町駅から南太田駅の南側は海でした。
一度でもあの辺りに行かれたことがある人なら信じられないかもしれませんが、たとえば関内駅から西に延びる伊勢佐木町モールの商店街も海の中だったということです。
そこに石材商であり材木商として既に江戸で新田開発(埋め立て事業)を成功させていた勘兵衛が地元の農民たちと協力して新たに開発し始めたのが1656年です。
1600年が関ヶ原で、1615年が大坂夏の陣なので、ほんの50年ほど前まで刀と大砲で戦が行われているような頃で、15代まで続く江戸幕府の将軍もまだ4代目の徳川家綱の頃ですよね。
1667年に勘兵衛たちは難工事を乗り越え新田開発が完成させ、後に苗字帯刀を幕府から許されて「吉田勘兵衛」と名乗り、現在の伊勢佐木町周辺を埋め立てられた土地を「吉田新田」と呼ぶようになりました。
5つの時代区分で見る横浜の歴史
歴史を考える時に自分なりの区切りとなる「目安」を持っておくと時代背景や歴史の流れを理解しやすくなるものです。
横浜の歴史の場合は4つの出来事と年号を合わせて覚えておくと目安になります。
- 1859年 横浜開港
- 1923年 関東大震災
- 1945年 横浜大空襲
- 1989年 横浜博覧会
江戸時代末期の横浜開港(1859年)を機に日本が近代化へと進んでいきましたが、その200年前の土木技術で1667年に吉田新田を完成させた事実を知ると、勘兵衛たち関係者の偉大さを感じずにはいられません。
横浜が開港し居留地と日本人街から成る「関内」に対し「関外」と呼ばれる吉田新田の平らで広大な土地の存在もまた横浜の発展の礎となったと考えることができます。
下記の関連記事でもご紹介していますが、もし横浜村があった現在の元町辺りから北西へ延びる半島だけの陸地しかなかったとしたら、もともと旧東海道の神奈川宿の近くの港を開港場として期待していたアメリカもさすがに横浜を開港場として納得することは難しかったかもしれません。
吉田新田に関する書籍の紹介
現在の関内駅から西南に広がる吉田新田の存在が横浜の発展に大きく寄与した歴史を知ると、小学校の授業に横浜で取り入れられているのもよく理解できます。
また吉田勘兵衛の名を「ハマっ子」を地元の立役者として当たり前のように知っていることも、その土地を理解し愛着を持つ上で大切なことのように思います。
さて、その「勘兵衛さん」はもともとどこの人だったかというと1611年に摂津国能勢で生まれた御仁なのです。
摂津国、つまり大阪の人が吉田新田を埋め立てた事実を知ると、横浜と大阪の古くからの縁を感じずにはいられません。
勘兵衛さんが吉田新田を埋め立てた歴史の詳細について、興味が湧いてきた方は下記の書籍をお読みになられてはいかがでしょうか。
- 横浜吉田新田と吉田勘兵衛
- 横浜を創った人々
- 港町の近代
これらの本はこの「途次大志の備忘録」でもたびたび参考文献としても登場しています。
「横浜吉田新田と吉田勘兵衛」はタイトル通りすべてが吉田新田に関する内容が描かれていますが、「横浜を創った人々」と「港町の近代」は章のひとつとして吉田新田が取り上げられています。
もしお読みになりたいようでしたら、本記事の末の参考文献からLINKで飛べるようにしてありますので御覧ください。
吉田勘兵衛の偉業を感じる
横浜の発展の礎となった吉田新田のことを知ったなら、折角なら現地の観光スポットに行って勘兵衛の埋め立てた土地の広大さを自分の肌で感じたくなりませんか。
吉田新田を実感する3つの観光地スポットをご紹介します。
- 野毛山公園展望台
- 吉田勘兵衛の旧邸宅
- 伊勢佐木長者町駅
これら3つの観光スポットはいずれも歩ける距離にあるため散策のルートとして順番にめぐることもできます。
野毛山公園展望台
京急線の日の出町駅、もしくはJR線の桜木町駅から少し山道があるものの歩くことができる場所に「野毛山公園展望台」があります。
この場所から吉田新田の大きさを実感できます。
野毛山公園は野毛山動物園の向かい側にあるので、もしかしたらこの辺りまで行かれたことのある方は多いかもしれません。
野毛山公園展望台は無料で開放されており、吉田新田に関する案内板も用意されているため、ここから勘兵衛が埋め立てた吉田新田全体を一望することができます。
実際にこの場所から吉田新田全体を眺めると、横浜開港の200年も前にこんな広大な土地を埋め立てようなんて昔の人は考えたものだと思えてくるでしょう。
吉田勘兵衛の旧邸宅
野毛山公園展望台で吉田新田の大きさを実感したら、その吉田新田を築いた勘兵衛の暮らしを体感しに行きましょう。
野毛山公園展望台から京急線の日ノ出町駅へと丘を下っていき、駅前の大きな交差点を超えると長者橋が現れます。
大岡川をまたいだ場所の街路樹の下に「吉田新田関連案内図」が見つけることができるでしょう
この案内板には吉田勘兵衛の旧邸宅の図が紹介されとり、勘兵衛の屋敷がまさにここにあったことを実感できます。
旧邸宅の敷地内には勘兵衛の暮らしを想像させる井戸や、信心深かったとされる勘兵衛を思わせる清正公堂分院を目にすることができます。
横浜の礎を築いた人物が実際にこの場所で日々を営んでいたのかと想像するだけで楽しくなってきませんか。
伊勢佐木長者町駅
「吉田新田関連案内図」のある長者橋の通りを大岡川から離れるように南東に進むと大通り公園に交差します。
この大通り公園自体が吉田新田の吉田川・新吉田川を埋め立てて作られて公園で、実際に訪れるとわかると思いますが1km以上の長く広々とした気持ちの良い公園です。
針葉樹では珍しい落葉するメタセコイア並木の大通り公園の地下に横浜市営地下鉄の「伊勢佐木長者町駅」があります。
駅の改札前のコンコースの壁に吉田新田に関連するオブジェが飾られています。
勘兵衛がこの地に暮らし、地元の人達と力を合わせて築いた吉田新田を、現在の横浜の人たちも大切に感じていることを理解できると思います。
吉田新田の大きさ、勘兵衛の暮らし、そして今の人達の想いを野毛山公園展望台、吉田勘兵衛の旧邸宅、伊勢佐木長者町駅をめぐることで実感できたのであれば、少し「ハマっ子」に近づけたのかもしれません。
まとめ
1611年に大阪で生まれた勘兵衛が江戸にやってきたのは1634年でした。
今から400年も前の人物の偉業が礎となって、横浜の発展に続いていることを感じながら散策するのは楽しいものです。
1859年の横浜開港以降、伊勢佐木町付近の「関外」の存在とともに関内周辺が急速に近代化し、1923年の関東大震災、1945年の横浜大空襲の苦難を乗り越え横浜という街は発展を成し遂げました。
1989年の横浜博覧会が行われた跡地である場所は、みなとみらい地区と呼ばれ、観光の街の代表的なスポットとして海外の人たちからも人気を得ています。
横浜の歴史に大阪が関係していたことを知ると大阪人としてなんとも嬉しい気分になるものです。
参考文献
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志