大学生になった友人の子どもたちと一緒に過ごせるって幸せなことだね
本当に貴重な機会でありがたい存在だよね
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者の途次大志(toji-taishi)です。
子どもが授かりたかった私たちのような夫婦にとって、人生を重ねていくこと自体に「どんな意味があるのだろう?」と考えてしまうことがあります。子なし夫婦だからこそ役に立てることがあるとすれば、これ以上の生きがいを与えてくれるものはありません。
子なし夫婦20年以上の私たちにとって、幸いなことに友人の子どもたちが「生きがい」を与えてくれて、ありがたく感じています。彼らから見ると、子どもを持たない私たちは兄貴や姉貴的な立ち位置の大人に見えるようで、一緒に食事に行ったり、お茶をしたりと私たちにとって貴重な機会をあたえてくれる存在です。
若い頃からの友人関係を続けることができたなら寂しい老後が豊かになるでしょう。子なし夫婦だからこそできる役割があ…
- 必ず「好き」は存在する
- 無限にある「好き」のカタチ
- 明瞭な「嫌い」を発見する
子なし夫婦に生きがい与えてくれる友人の子
友人の子どもたちが高校を卒業すると、これまで親である友人と一緒に付き合いのあった子どもたちが単独で、私たち夫婦と食事に出掛けたりするようになりました。先日も大学に進学したなかりの友人の娘と食事をしている時に、就職や将来への漠然とした不安を口にするようになりました。どうやら彼女は「自分が好きと思えることがない」と感じているらしく、どんな仕事を選び、どんな風に生きていけば良いのかをどのように考えていけばわからない状態にいるようでした。
女性の大学進学率もこの10年で上昇し、大学進学を無事に果たすと、いよいよ次には社会人という新たなステージに進むことになる不安な気持ちはよく理解できます。
2009年の大学進学率
- 男性:55.9%
- 女性:44.2%
2019年の大学進学率
- 男性:56.6%
- 女性:50.7%
参考:文部科学省「学校基本統計(令和元年)」
必ず「好き」は存在する
若者だけでなくアラフィフになる私たちも「自分はどんな人間なのだろう?」と考えることは自然なことだと思いますし、大切なことなのでしょう。
自分に「好き」なことがないと感じている大学生の彼女にまず伝えたのは、好きなことが存在しないということの方が不自然で難しいことなのではないかということでした。
探しものをする時に、この部屋に「必ずある」と探し始めるのと、「ないかもしれない」と思いながら探すのとでは発見率が大きく異なるように思います。なにより「ないかもしれない」と探していると根気が続かず、途中に諦めてしまいかねません。
大学生の彼女より少しは長く生きてきた経験から「好き」が存在しないということの方が難しく思います。きっと彼女の中で「好き」がないのではなく、単に「好き」を見つけられていないだけなのだと捉えた方が発見への道が開けそうに思います。
無限にある「好き」のカタチ
探しものをする時には、探し当てるモノのカタチを頭に描きながら探すことが多いでしょう。たとえば部屋の中でスマホを探す時もカタチを無意識にイメージして、隠れていそうな場所を探します。
自分自身が「好き」なことのカタチっていったいどんなカタチなのでしょう?
もしかしたら、そのカタチの先入観が発見を難しくしているのかもしれません。
美容師になりたい友だちと一緒にいると「美容に関することが好き」と言える友だちを羨ましく思う気持ちはよく理解できます。就職を控えた大学生にとって職業という「好き」のカタチに考えが及んでしまうこともよく理解できます。でも実は「好き」というカタチはもっとふわふわとして実はとらえどころがないものなのかもしれません。
職業というカタチをまずは取り払い、生まれてこれまで無意識に蓄積してきた固定概念を消して、単に自分が「好き」なことはなんだろう?と探し始めてみるのが良さそうに思います。
「好き」の見つけ方
アラフィフの私たちでも自分の「好き」を見つけるのは簡単なことではありません。ただし「好き」を見つける方法論は、人生の経験を通じて自分の中にあるように思います。
まず「好き」は必ず存在しているという確信を持ち、カタチにとらわれることなく探し始めることでしょう。
その心構えができれば、逆に自分が「嫌い」なことを明確にするとぼんやりとした「好き」がおぼろげにでも見えてくるように考えています。
「好き」と違って「嫌い」の輪郭は比較的明瞭なものではないでしょうか。たとえば私個人で考えると、戦争中に生きた人たちのような様々な自由を周囲から拘束されることは嫌いです。他にも、ある一つの意見が絶対かのような集団に属することは嫌いです。人を見下したような偉そうな言動の人の近くに居ることは嫌いです。
このように自分が「嫌い」なことは簡単に発見できるのではないでしょうか。比較的輪郭がはっきりとしている「嫌い」以外のことはすべて「好き」の可能性を秘めていることになりませんか。
カタチのない無限の「好き」を見つけるために「嫌い」を明瞭にすることで発見できるように思います。社会人に比べれば自由な時間が多いとされる大学生の間に、いろいろな人と出会い、経験をすることで、それらの中で「好き」を見つけようとすること自体が大切でしょうし、逆に「嫌い」を明確にすることも大切なことだと気づくでしょう。そう考えていくとこれから接する全ての事象に無駄なことは一切含まれていないことを理解できるように思います。
まとめ
子なし夫婦の私たちにとって、兄貴や姉貴のような存在に感じて接してくれる友人の子どもたちは本当にありがたい存在です。そして彼ら彼女らと過ごし、少しはなにかの役に立てるのだとしたら「生きがい」にもなります。何よりそんな貴重な時間を過ごすこと自体が私たちのが「好き」なことなのだと再認識させてくれます。
必ずしもここで紹介した方法で自分の「好き」を発見する必要はありません。人それぞれで方法論も異なるのが当然です。いずれにしろ友人の子どもたちの不安が少しでも和らぎ、自信をもって人生を歩める何かの役に立てたのであれば子なし夫婦だからこその役割が果たせたのかもしれないと安堵するばかりです。
参考文献
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