横浜観光するなら開港前の人々の様子を知りたくなるね
1854年のペリーが見た横浜の風景や役人、女性、労働者の姿が興味深いよ
こんな人にオススメ
- 幕末の横浜の人々の暮らしを知りたい人
- 横浜観光を深く楽しみたい人
- 横浜に縁のある人
このブログ記事にたどり着いて頂きありがとうございます。
「途次大志の備忘録」の執筆者で休みの日にはぶらぶらしたい途次大志(toji-taishi)です。
折角の休日に横浜に観光に出掛けたのなら歴史的背景もざっくりでも理解しているともっと楽しめそうです。
1853年に黒船が来航後に急速に発展したと言われる横浜ですが、開港前の横浜の様子を伝える一冊をご紹介します。
- 横浜の歴史をざっくり理解
- 「横浜開港以前」の時代区分に着目
- 1854年の横浜の風景や住民
さて、ここでクイズです。
開港前(1854年)の日本の国民、横浜の民度は世界と比べてどの程度だったでしょう?
横浜開港以前の横浜を知れる本
幕末の頃の横浜に暮らす人々や暮らしぶりはどんな感じだったのでしょう。
横浜在住20年の私だけでなく観光でいらっしゃった方も少しは興味を持たれるのではないでしょうか。
いったいどんな本や資料を見ればわかるのだろうと探していたら「ペリー提督日本遠征記」という本に出会いました。
日本の人には馴染みの深い歴史上の人物M.C.ペリーは横浜村を視察し記録としてまとめていました。
横浜の歴史をざっくり知る
まずは横浜の歴史をざっくりと知るために以前にもご紹介した横浜での「4つの出来事」を機に「5つの時代区分」で考えていくことにしましょう。
1853年に黒船に乗ったペリーが浦賀に現れ、それを機にアメリカとの条約を締結し、日本は開国へとむかいました。
「ペリー提督日本遠征記」には「横浜開港以前」の横浜住民の様子が記録されています。
またこの本はペリーや乗組員など実際に航海を経た来日経験者による主観的な視点に偏らないように熟慮されて編纂されました。
こうしたペリーによる発刊の経緯を考えると信頼性が高い資料と捉えることがだきます。
時代区分「横浜開港以前」の後半
横浜は1859年の横浜開港から1923年に関東大震災で壊滅的な被害を受けるまでの「横浜開港〜関東大震災」の時代区分で急速な発展を遂げます。
年間3,000万人の観光客が訪れる横浜では1859年の開港を記念したお祭り(横浜開港祭)が開催されています。
「横浜開港以前」の時代区分の後半の出来事として1854年にペリーが二回目の訪日で日米和親条約を締結したことがよく知られています。
「ペリー提督日本遠征記」にはこの1854年の日本や横浜の様子が描かれています。
1854年にペリーが視察した横浜
開国前の1854年の日本で暮らす人々の様子を想像することができるようになると、観光で実際に目にする横浜の景色も少し深みが増すように思います。
ペリーの記録によれば、日米和親条約の調印を取り交わした後、住民の風俗習慣を観察するために数人の士官、日本の役人と通訳を伴って横浜村に上陸しました。
春に近づいた季節、最高気温は18℃、暖かく快適な陽気の日に横浜村の視察が行われました。
外国人が見た開港以前の横浜
「ペリー提督日本遠征記」の興味深い点は日本人ではなく、当時の西洋や東洋諸国を知る外国人が記録したという点です。
1854年当時の横浜の民度はキリスト教の影響下にある国ほど高くはないものの東洋諸国の中では最も道徳的で洗練されたものだったと記録されています。
冒頭のクイズの答えはBということになります。
それでは「横浜開港以前」の横浜の風景と人々の暮らしぶりを見ていくことにしましょう。
12mのツバキが咲き誇る
春めいた陽気の中、ペリーが目にした横浜の景色は谷や丘の中腹に広がる階段状に配置された田畑が豊かな新緑に覆われた風景でした。
江戸湾沿岸のいたるところに約12mのツバキの巨木が、紅や白の清楚な花が満開に色づき比類のない美しさだったと記録に残されています。
現代の樹木に関する本ではツバキ類は8mを超えるような高木ではなく、2mから8m程度の低木から小高木に分類されています。
1854年の横浜には常緑樹であるツバキの花を代表に緑が豊かな土地だったようです。
本音と建前の役人たち
ペリーの視察に同行した役人や通訳たちは住民たちの混乱で騒動になることを防ぎたかったことでしょう。
村や集落に近づくと役人は女性や野次馬たちの交通整理をし、少しでもペリーへの接触を避けようとします。
少しでも多く住民と接触し風俗習慣の情報を得たいペリーは交通整理をやめるように言いますが、森山栄之助という通訳者は「日本の女性は慎み深く、外国人の視線にさらされるのが耐えられない」という理由でなんとかその場をしのぎます。
してやったりの日本の役人たちでしたが、日本人の「本音」と「建前」の使い分けをすでに熟知していたペリーにはすべてお見通しだったようです。
その場をうまくしのぎきったと得意顔の日本の役人たちを思い浮かべると少し滑稽に感じてしまいます。
女性への高い敬意
男性のように頭のてっぺんを剃っていないものの、女性の髪型は男性と同じように頭のてっぺんで束ねられ、服装も男性とよく似た衣服を着ていたと記されています。
他の東洋諸国と比べ日本国民の優れた特質として女性が伴侶として認められている点が挙げられています。
女性の地位がキリスト教の影響下にある国ほど高いとは言えずとも、東洋諸国で見られるような女性を家庭内で奴隷扱いにし、単なる快楽の対象とするような文化は日本人には見られなかったようです。
若い女性は美しく、立ち居振る舞いも活発で自主的であったとされています。
女性の優位性や家庭内道徳が広く普及し、女性に比較的高い敬意を払われていたことから生まれる品位の自覚があったことが理由ではないかと記されています。
女性を魅力的にするには男性や社会の意識が影響するものなのかもしれません。
労働はブラックじゃなかった!?
小さな町の住人たちは役人、商人、労働者の主に3つの階級に分かれていたようです。
下層の人々が酷使されている様子はなく豊かで満ち足りているようにペリーたち外国人の目には映っていました。
貧困はあっても最下級の階級の人たちの身なりはこざっぱりとして、簡素な木綿の服を着て、勤勉に働いていたようです。
いかなる階級の人たちも極めて礼儀正しく、好奇心旺盛ながら不快に出しゃばるようなことはありませんでした。
それでも縦社会はしっかりと存在していたようで、下層階級の人は明らかに上層の人々の前では普段よりも控えめな態度で接し、恐れている様子だったようです。
まとめ
「横浜開港以前」の時代区分の後半、1854年の横浜の人たちの様子を「ペリー提督日本遠征記」に求めました。
ご紹介した横浜の様子は本書の一部の内容ですが、ツバキの花が彩る豊かな緑の谷や丘の風景、役人たちの立ち居振る舞い、女性や労働者の姿を思い浮かべることができます。
横浜はこの後の「横浜開港以降」の時代区分の中で大きな「発展」を遂げていくことになります。
その後、1923年の関東大震災以降の「復興」、1945年の横浜大空襲以降の「再建」、1989年の横浜博覧会以降の「整備」の時代区分を経て、現在の観光地として知られる今の横浜の姿へと移り変わっていきました。
ペリーが見た「横浜開港以前」の横浜の風景や人々の様子を思い浮かべながら現在の横浜を観光してみてはいかがですか。
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。これからも良質な情報をお届けできるよう精進いたします。今後とも「途次大志の備忘録」をお引き立ての程、よろしくお願い致します。 途次大志